念力というと、いわゆる超能力のようなものを想起してしまうと思いますが、本来「念」とは「今心」なので、今に心を合わせるとか、今に集中するとか、自己観察というような意味を持っています。なので、念力といえば、本来は今への集中力とか、自己観察力というようなものになります。
まあどうして自己観察なのかということになりますが、これは普段慣れ親しんだ自分というものを社会的な客観性をもって見るというものではなく、端的にはヴィパッサナーということになります。「ありのまま観て気づく」という感じです。
今、私は何をやっているんだ?
ヴィパッサナーの訓練として、「ゆっくりした動作を行い、ラベリングしながら確認する」というような方法があります。
そうした事をした場合にありがちですが、集中力が徐々に高まってくる中、まだ我という意識が残っている時、「今、私は何をやっているんだ?」という気分がやってきます。まあ普通の人が自己観察を行った場合、まずはそのステップがやってくるでしょう。
その「今、私は何をやっているんだ?」という意見を言ってくるものがまさに我の意識、自我です。
爬虫類脳からやってくる否定の衝動
そうした意見が出てくる理由としては、根本が生存本能であり、生命維持に関係のなさそうなことには「否定の衝動」を送ってくるからということになります。
まあ単純には、より原始的な生命体としての部分、生存欲求の衝動のみがあり、欲と怒りの衝動しか持たない、脳で言うところの「爬虫類脳」の衝動が、理性的な大脳新皮質における言語を用いて「意見」として言ってくる、という感じです。
その衝動は非言語であり、単に感情や感覚を呼び起こすものにしか過ぎません。不快感や緊張、喉の乾きのような渇望感といった程度です。
で、それが言語として変換されて演算が始まり、演算結果がまた不快感をもたらす、というのが日常の苦悩のあり方です。
爬虫類的貪りと爬虫類への慈悲
そのような感じで、念を繰り返していると、貪りに任せるまま「私は成功者だ」などと言っている人を見た時に、爬虫類に見えてくるはずです。
しかし、ここでよく考えてみたいのが、爬虫類に差別意識を持ってはいけないということです。
今回はアメリカドクトカゲさんに登場していただきましたが、彼は彼なりに(実際の性別はわかりませんが、ここでは彼と呼ぶことにしましょう)、死に恐怖を感じ、生存本能の衝動に命令されるがまま、その生命のあり方の機能に応じて、生きているに過ぎません。
同じように苦しみを持ち、それから逃れるためにと右往左往している仲間であり友達です。そういうわけなので、爬虫類の生き物にも慈悲の心を持たねばなりません。
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爬虫類の彼が、爬虫類的貪りを持つ人間と異なるところとして、彼は必要以上の貪りをせず、必要以上の怒りを持たないという点があります。
なので、「歴史に名を刻む」とか「みんなも成功者になろう」などと必要以上に貪りに耽っている世間で言うような成功者(笑)よりは随分と理性的です。
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