廃物、もしくは廃人のイメージ

廃物、もしくは廃人のイメージに一種のかっこよさを感じ、退廃的な雰囲気に酔っているような感じの人もいます。

別に完全燃焼したというわけでもないにもかかわらず、その廃人感に一種の美徳さえ感じ、そこに僅かばかり含まれるような芸術性と同化することで、自己陶酔しているような感じです。

まあそんな人を観察してみると単に何かの資格試験に落ちたとかそうした程度だったりします。

「期待したルートから脱落して絶望」といった感じでしょうか。

ただそうした「期待したルート」すらも、朧気なところか生まれ、虚像を実体であると錯覚して夢になったという程度だったりもします。

廃人感に酔っている感じ

結局思い返してみると「偶然」の積み重ねでしか無く、実際に友人知人においても天職のようなものに出会って大成している人たちはそのほとんどが「たまたま」感満載だったりもします。そういうわけなので、「具体的な何か」にはあまり期待しないほうが良いでしょう。

「何かすごい志を持って突き進んでいるのがかっこいい」というのもわからなくもないですが、そんな志自体が生まれたのが偶然の積み重ねであるというのは、ちょっと考えればすぐに見えそうなものです。

なんだか「廃人感に酔っている感じの人」の絶望の手前にあった目標とか期待みたいなものを見聞きすると、大体がなんとなく社会的に微妙に評価されていて、それを義務教育レベルの得意不得意の視点から消去法で無理に選んだというような対象ばかりのような気がします。

つまり、「社会的に評価されている、とされるようなもの」に、「向いていそうだから目指した」ものの「なれなかった」、だから「落ち込んでいる」という程度であるというような感じです。

たまたまの連続で始まったコンサルティング

稀に自己啓発洗脳系コンサルタントなどについて触れることがありますが、私事ながら一応まれにコンサルティングのような依頼を受けることもあります。

そこで面白いのが、僕の場合はたまたまの連続でそうしたことがたまに仕事になっているというだけという点です。

自己啓発洗脳系コンサルタントの方々も、たまたま無料につられて何かの胡散臭いメールマガジン登録をしたりしてしまった後、気の迷いでセミナーに参加してしまったりして本格的にマインドコントロールされ、自分もコンサルタントになるぞ的な志を持ってしまい、結果、教祖の下僕として奔走するような形になったりしています。

その他、コンサルタントを志して、中小企業診断士を取って念願のデビューとか、コンサルティング会社に入ったとかそうした人もいるでしょう。

空いた「講演の枠」を埋める形でスタート

しかしながら、僕の場合は、たまたま知人から「次の講演の枠、出る人がいないんですけど、お願いできますか」などというお呼びがかかり、「いいですよ」といって引き受けたりしたのがきっかけです。経営者が集まるような会合における講演です。

もちろん、講演をするからには、足を運んでくれている方々をがっかりさすまいと、できる限りのことをやったりしました。

すると、その会場に別の団体のお偉方が来ていて、「次、うちでもお願いできますか」という感じになり、次も話すと、参加者から「個別コンサルティングってお願いできるんですか?」とお声がけいただいたりしたという感じです。

安易な相談の連絡を止めるために「有料のサービス」にした

それはそれで一過性のものだと思っていましたがそんな時、名刺の連絡先を見て「ちょっとした質問」をしてくる人がいっぱいになったので、安易な相談の連絡を止めるために「有料のサービス」にしたという感じです。

別にお話したりするくらいは何とも無いのですが、萬田銀次郎氏風に言うと相手は一応儲かるという構造の中「こっちが困った時に下の世話してくれまんのか」の世界なので、対企業の場合は有料にすることにしました。

まあそのきっかけは、20歳くらいの時に感じた「高級店におけるぼったくりレベルの価格の不思議」の一つの答えとして、その後何かの本で読んだ「費用は排除のためにも用いられる」という要素について思い返したという点です。

という感じなので、やろうと思ってやり始めたわけではありませんし、「コンサルティングサービスしてますが、要りませんか?」と特に宣伝することも営業することもしていません。

こうした部分にも「安易な連絡を止めたい」という「怒りメインの性格」というものが出ています。

「期待したルートから脱落して絶望」というのは近視眼的なだけ

そういうわけなので、「期待したルートから脱落して絶望」というのは、単に近視眼的なだけであり、期待を持った当時の自分を含めて執著から生まれていることでもあるので、廃人感に酔うようなことでもなんでも無いと思っています。

元々、その「期待したルート」すら過去の自分、まだまだ幼かった成長途中の自分が曖昧に選んだようなものであるはずです。

「やりたいことが見つからない」というのも同じようなものでしょう。何だかそれすらも「自分探し」に酔っているというような感が含まれているような気がします。

変な具体性を取っ払って目の前に集中していると、勝手に何かしらは楽しく集中できることが現れてきます。

そういう意味でも「執着が苦しみを生む」という感じになるでしょう。

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