京都にはたくさんの寺があります。そして家の固定電話が鳴ったと思ったら葬式の勧誘と墓の勧誘、そして保険の勧誘ばかりですね。どれも死にまつわるようなビジネスです。
一生にかかる宗教がらみの費用を一切払わないことにしています。
葬式を筆頭に花代や季節ごとのイベント費用を考えると相当の無駄金です。それをトータルすると1000万円くらい無駄に払うのではないでしょうか。お花屋さんはいいですが、宗教屋に払うつもりはありません。
そうしたものは所詮宗教屋による冠婚葬祭ビジネスであり、墓場ビジネスであり墓場利権です。墓を持つことで逆に意識の中の柵すら強化してしまうことになる上に、それでお金が取られるのだから、もう霊感商法と呼んでも差し支えないと思っています。
先日、社長仲間から瞑想体験というものに誘われました。しかしその瞑想体験に参加するには5000円程度かかるそうです。どうしてタダでできるようなものにそんなに費用がかかるのか不思議です。
宗教屋の弊害
宗教屋の弊害は、いくつかあります。一つは金を貪ること、そしてもう一つの方が重要なのですが、形而上学的理由を持ち出して人を脅すことです。誰でも証明や確認可能な事柄を脇において、哲学的領域について自分たちの妄想を根拠に人をマインドコントロールしていきます。
そして、それにより勘違いを強化し、ハードルを強化していることです。何のハードルか、それは簡単なことですが、フィルターのない立場というか視点です。
「仏様とはご先祖様、ご先祖様に供養を」ということを安易に言ってきますが、この言葉に出てくる単語の意味すらよくわかりませんね。
死んで無に帰す、ということになれば、死んでない「周りの人」があれこれしても意味がないのでないでしょうか?
ではどうしてそれをあれこれしようとするのでしょうか?
そしてどうしてそれにはお金がかかるのでしょうか?
おそらく僕には一生わからないでしょう。
しかしそんなことよりもっと問題なことがあります。それは生きるための条件をより一層増やしてしまうことです。でもそれでもどうして人はそんな宗教屋にはまってしまうのでしょうか。おそらくそれは「他人を意識しているから」です。
他人なんていない
確かに目の前に人がいるとしても、目の前から消えれば、「自分の視界にはいない」ではなく、本当にいません。いないというと語弊がありますが、いるわけでもなくいないわけでもないというような感じです。
「さっきまでいた」というのも、記憶であって、現在の視覚的現象ではありません。先に言ってしまいましたが、現在であっても視覚的・聴覚的など感覚的現象であって、「存在する」というのは少し違うことになります。
目の前の人ですらそうなのに、どうして死んだ人のことを持ち出して、名前をつけてあげたり、墓を設置してあげなければならないのかよくわかりません。しかものそのためには勤め人なら数ヶ月分の労働と引換です。信じられません。
「他人が自分とは独立した存在として、存在している」というのは紛れもない事実、というのが一般的な考えですが、それはフィルターを通して歪んで認識した世界の捉え方です。仮観の世界です。
紛れもない事実ということで、必死に何かしらの「証拠」を出そうとしますが、それは物理的観測結果を提示しているだけで、認識の間口は自己の中心しかありません。何をあれこれしようとも、どれだけ大掛かりなスクリーンで見せようが、自分の目を通してしか最終的には情報は入ってこないのと同じことです。
自分は他人ばかりで構成された社会の中の一員、という見方から、一歩踏み出してみてはいかがでしょうか。
他人の目は虚像ということに関してのご都合解釈
恐怖心が根底にあって、不足感をもたらすことを仕事にしている自我は、何でも最終的に恐怖心や不足感に回帰するように思考解釈を行います。
「他人の目を気にするな」という言葉を聞いても、すぐに実社会的な解釈をします。
「いろいろな意見があるだろうけど、くじけることなく進みなさい」というような体育会系の意見にすり替えます。
しかし、そういうことではありません。
真理が有益であるか、または真理が自分に災いをもたらすのではないか、そんな疑問を持ってはならない。(アンチクリスト、反キリスト者)
というようなことをニーチェが言っていました。
一歩間違えれば危ない新興宗教どころか宗教屋に悪用されそうな格言ですが、「その恐怖心前提の社会的なご都合解釈やめろよ」ということですね。
ところで自我の特性はこのようなものですが、そもそも自我とは何でしょうか。自分とそれ以外を分離させる要素ですね。
分離しているのだから求めたり、不足を感じるという構図になっています。
他人の目どころか、他人すら虚像ですね。他人というのも、おぼろげな現象であって、印象にしか過ぎません。
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