優美への努力

もし強い性格の人が、残酷への傾向をもたず、いつも自分自身のことにかかわるのでないとすれば、彼は知らず識らずのうちに優美を求めている。― これが彼の目印である。弱い性格の人は、これに反して辛辣な判断を好む。― 彼らは、人間軽蔑の英雄たちや、存在を宗教的または哲学的に誹謗する者たちの仲間になるか、または厳しい風習や苦しい「職業」の背後に引っ込む。こうして彼らは、性格と一種の強さを得ようと努める。そして彼らは、これを同じように知らず識らずのうちに行うのである。 曙光 238

「人間軽蔑の英雄たちや、存在を宗教的または哲学的に誹謗する者たちの仲間になるか、または厳しい風習や苦しい職業の背後に引っ込み、性格と一種の強さを得ようと努める」

と、知らぬうちに行っていることがあります。それは正月によく見る光景です。

「合格祈願」

こういう絵馬を書きにわざわざ京都にやって来る人がいますが、祈ってお願いしている場合ではありません。そんなことをしにわざわざ遠方から来るくらいなら、風呂に入ってアカスリでもして寝ている方がいいのではないでしょうか。温泉に行って体調を整えるとか、入試会場に行って、場の空間に慣れておくといったことをする方が理に適っているような気もします。

感謝の場としての神社とご利益

さて、最近では、神社というものは、お願いごとをしに行くところではなく、感謝をしに行くところだということが、ようやく認知されてきました。しかし「感謝をしに来い」と「京の冬の旅」などに書いてしまえば、そのポスターを見た方は「どあつかましいことを言うな!」と怒ってしまいます。

観光が一種の産業となっている以上、そういうことはなかなか伝えにくいのはわかりますが、拝金主義に徹し、人に勘違いをさせてきたのは旅客運送会社や旅行会社というよりも運営者側の責任です。

自らの収益のために旅行会社などと手を組み、「ご利益」を全面に押し出して、神社の意味合いを変えてしまいました。それは自分たちが祀っている対象に対しても冒瀆ではないのでしょうか。それとも、それは「実は関係ない」と「わかっている」からこそ、やっていることなのでしょうか。

一種の人間軽蔑

ただ、感謝をしに行くというのも一種の人間軽蔑です。自分は誰かに縋らなければできない、成すことが出来ないという認定であり、助けてもらわなければ大変なことになるという恐怖心です。

どうせ感謝をするなら受験まで元気でいられた「事実」にだけ、感謝をしていればいいだけで、賽銭箱にお金を入れる必要はありません。

もし神社に祀られている対象が、そういった「力」のあるような存在であるならば、生まれた時から家庭の資産状況には差があるのに、賽銭箱に突っ込んだお金の多寡で人を測るような存在ではないはずです。

他人の学力を操作できるような能力があるのに、「感謝をされない、お金をくれない」と、それで怒ってしまうような相手なら、まだ自分の怒りに翻弄されてる生悟りの存在だ、くらいに思っておきましょう。

感謝されないと拗ねてしまうようなら、ちょっと夕食の食器を台所に持って行って「褒めてもらえない」と拗ねる子供のようです。まだ子供レベルの心の成熟度なのだ、と思っておきましょう。

しかしそんなことはすべて虚像です。いようがいまいが、関係ありません。すでに自分の中には感覚を認識し、意識を捉えるという能力は備わっています。

それ以外の「能力」のようなもの、社会的な「武器」を必要とする、つまりは社会的な攻撃力や防御力を「無くてはならないもの」とするのはアイツの仕業です。

もし仮に、そんな存在に出会ったら、「体を持っていない君には得ることのできない徳を持って行きたまえ、ついでに君のもっている徳をもらおうか」くらいに思っておきましょう。

優美への努力 曙光 238

Category:曙光(ニーチェ) / 第四書

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