よく「人を動かす」ということについて語られたりします(そういうタイトルの有名な本もありますね)。
ただ、本当は「動かす」というのではありません。普段の日常で考えると一番いいのは「人が勝手に動く」ということのはずです(本来それすら茶番です)。
しかしながら、世間ではどうしても人を動かすということにあたって、変なやり方をしてしまいます。
そしてそれでも動かないので、怒り出すか、変なテクニックに走ろうとするか、自己犠牲に走るかというような感じになっています。
多いのは、「ゴネる」「正論ぽいもので押す」「諦めて自己犠牲に走る」というようなものでしょうか。場合によっては、中途半端な知識をそのまま使って「おだてる」とか「ほめる」ということをしようとしたりもするでしょう。
なぜそんなことになるのかというと、その人がそのパターンを自分のモチベーション維持に使っているからです。
ゴネる人は、自分自身が「怒り、恐怖、不安」をモチベーションにしています。また正論ぽいもので押す人は、その人が普段正論っぽいもので押されているのです。
「おだてる」、「ほめる」という方法を取る人は、普段その人自身がおだてられたりやほめられることで動いています。
(ちなみに「諦めて自己犠牲に走る」というのも、沸き起こったイライラを鎮めるのに「行動でノルアドレナリンを消費する」というような習性ができているだけという感じになっていたりします。根本解決はしていません。人が動いていないですから)
ただ、そうした方法を取っているのに相手が動かないと怒り出します。
「人を動かす」ということについて、相手に誠実な関心を向けるというようなことが語られたりしますが、裏を返せば、それだけ他人のことなど見ていないということです。
「自分は褒められて動くのだから、相手も褒められたら動くだろう」
「正論は正しいのだから、それで論破すれば相手は動くだろう。自分はそれで納得しているのだから」
という勝手な推測、期待があります。
で、「変なやり方」をしてしまいます。
第一順位の「自分と同じモチベーションの作り方」が通じないと、次は耳にかじったような別の方法で試す、それでも通じないなら怒り出すというような感じになっています。
世のすれ違いはこうした構造になっています。
ただ本来、人が勝手に動くということが理想的です。
それを支えるものの一つは自己評価の高さです。これは根拠のない自信が最強です。
もう一つは視点の高さです。頭を使うというのはいいですが、どれだけ俯瞰して物事を見ているかということが重要です。
一応、「頭を使う」というのはその通りですが、たいていは「データを駆使した正論で論破してやろう」ということに頭を使ったりします。
そういうことではありません。
相手の本音はどこか、何が障害になっているかということも考えて高い視点から見てみるということです。
さて、どうして人が動かないのかというと、動いても面白くないからです。つまり、結果を出してもつまらないと思っているからです。
というと、面白さを作ろうとしてしまいますが、この面白さのようなものは、ゲームのような楽しさから、自分自身の成長の実感等様々なタイプのものがあります。
「動いた先に面白いことになるぞ」ということを伝えるのはいいですが、そこに義務のようなものが含まれていると、結局は嘘なので見抜かれて抵抗されます。
ただ、脅すようなことしないと動かない人もいます。そして、動けないような事柄もたくさんあります。
脅して人を動かすということが染み付いているのは、やはり戦争を引きずっているような感じもあります。そんなことは普通の神経の人はしたいわけがありませんから。
しかしながらその人が脅さないと動かないほど堕落していても、逆に脅しによってしか動けないというパターンが染み付いていても、世界を見る見え方を変えるとどんどん違うパターンに変化していきます。
それをやっているのが自己啓発洗脳です。
その人自身がその人のために自分が楽しく動けるようになる、やる気が湧いてくるというのはいいですが、その対象が「自分が受けた自己啓発セミナーの集客」ということになるのであれば、それは相手に利用されています。つまり洗脳です。
人に限らず、生き物はすべて理想の状態を知っています。
それを狂わせて見えなくなるようにしているのが、歪んだ知識です。
その知識の空間より高い抽象空間に行くことで、その知識の呪縛を超えることができます。
歪んだ知識というのは、ひとまず成り立たせるためにとか、ひとまず儲けるためにということで、無理やり作られた空間です。
その空間自体の知識というか情報の体系自体は正しさを持っていますが、その具体的な空間に縛られると、その空間内でしか動けなくなります。
それと人を動かすことがどう関係があるのかということになりますが、単純に、自分が高い自己評価を持っていて、高い視点から俯瞰していると、その空間に引っ張られて、相手の自己評価や視点が高まります。
で、障害が取れて動き出すという感じになります。
なぜなら、誰しもが「自分の理想」は予め知っているからです。
そこに行きたいものの、行き方ややり方が見えていなかったものが見えてくるという感じになります。
そもそもなぜ「人を動かしたい」などと思うのでしょうか?
それは、何かしら自己評価が低いことが原因となっています。
「自分の力量に限界が来たので他の人に助けてもらいたい」というのが本音です。
それは、気力体力の場合もありますし、自尊心の場合もあります。
「自分の力量に限界が来たので他の人に助けてもらいたい」というのが本音であるにも関わらず、そう言ってしまうと自己評価がさらに下がる、という観念があります。
なので、「正論で論破」等々でゴネてみたり「ほめて欲しい。認めて欲しい」などとすがったりるわけです。
歪んだ知識の空間というものはすごく単純です。
「モテ」がすごくわかりやすいのではないでしょうか?
例えば、すごくいい学校に行けばいいということを知識空間として保持していて無理に(というよりいやいや勉強して)いい学校に行ったとします。
で、そこを卒業すれば「優れた男としてモテるはずだ」と思っている人がいたとします。
統計上、偏差値の高い学校を出ている人の方が婚姻率が高い等々のデータもあったとします。
実際は、モテません。
(もちろん同じような考えを持っている異性もいます。同じような歪んだ知識空間の中にいる人もいるので、全くダメということはありません。ただ普遍性はないというだけです)
で、「モテないのは自分がそこを卒業しているという情報を相手が知らないからだ」と思い、相手に伝えます。
もっとモテません。
さらにモテないのでキレてきます。
で、相手を罵倒したりしだすんですね。
するとさらにモテなくなります。
なぜそういう事をしてしまうかというと、元々恐怖、不安、妄想をベースに無理をしたからです。
教育ビジネスや「自分たちの評価を高めたいその空間の先人」の「ババ抜きのババ」を押し付けられたようなものです。
こういう人が、モテている人と一緒にいると、そういう空間から脱していきます。
しかし普通は、一緒にいると不快なので一緒にはいません。
ただ、その人と同じレベルではないのに一緒にいて不快ではない場合もあります。根本的な自己評価が高い人ですね。そういう人と一緒にいる時に空間から脱します。
―
どのような時でも「なるべくリラックスして、頭をスッキリさせる」ということを最優先にしておくと、何かが起こってもスイスイ片付いていきます。
なので逆説的ですが、「人に動いてもらわなくても結構」という状態が一番「人が勝手に動いてくれる状態になる」という感じです。
最終更新日: