人の目を気にする病

「うまくいかないこと」自体は、差はあれ誰にでもあります。解釈次第でなんとでもなる程度です。

ただ、「圧倒的に社会でうまくいかない人」にはいくつかの明らかな特徴があります。

それは人の目を過剰に気にしているという点です。

それだけならば、まだ何とかなることもありますが、それに次の要素を加えると絶望的になります。

「マザコン」です。これは実質的には、対象を実母に限定しません。

母性的な要素のある人に対してならば、「感情を爆発させてゴネれば、最後は、自己解決できないことを解決してくれる」ということを成功法則にしているという点です。

つまりまとめると、人の目は気にする、すなわち、自分が他人からどう評価されているかという点は過剰に気にしますが、相手が身内だったり、母性的な人であれば、「みっともないレベル」でゴネまくるということができる人です。

「よくそんなことが言えるな」というようなことも平気で言います。

そして、時に、ゴネなかった自分がどれほど頑張ったか、我慢していたか、ということを過剰評価します。

そういう人で、社会で通用している人をあまり見たことがありません。

通用している風に見える人は、「単に親の不動産収入で食っているだけ」といった感じで、実際は通用していないという感じになります。

しかし、それとは異なる形で「通用している風」の人もいます。

それはホーム◯ブハートのようなカルト的な組織、ブラック企業等々です。

ゴネに対して対応する、という形が「共依存」で安定するということがあります。

その空間が肥大化すれば、「通用している風」で成り立つこともあるということです。

一応、「こういうことを言うと、自分は相手にどう思われるだろう?」ということを考えられる、という意味で人の目を気にする能力自体はあっても良いのですが、そうにしてもどこを基準として重視しているかによって、この考えの意味合いが大きく変わってきます。

相手を傷つけるだけになるとか、相手に変な人だと思われて去られてしまうとか、商売人ならば、それではお客がつかなくなる、とか、一応いろいろな視点があります。

しかし「圧倒的に社会でうまくいかない人」は、自尊心だけを気にしています。

その他の事情がある人もいるので一概には言えませんが、ニートだ、引きこもりだ、フリーターだ何だと言って、一言で言えば、面接で「今まで何してたの?」と言われるのが恐いだけです。

そういう人の大半は、たいていどこかで、身内や親しい母性的な人や許容してくれる人に対して偉そうだったりします。

「こういうことを言うと、自分は相手にどう思われるだろう?」ということを考えられる上に、人の目を気にすることがなくなることは、「現実を見破る智慧」が発達した時にもたらされる状態のひとつです。

自分の体感を含めて思考も感情も、そして現象も何もかもが、「私そのもの」ではない、という感じになりますから。

強いて言うならば、「自我」以外の部分、現象そのものが「ほぼ私」であり、それを自我と合わせると、「私」になります。

こうなると、私であって私ではない、という私と私以外が抽象化された「空」となります。

哲学領域からの視点としてはそのような感じです。

いきなり最高地点付近まで上がったところで、レベルを落とします。

そうなると「人の目」というのは何なのでしょうか?

「傷つけられて困る」と思う自尊心というものは何なのでしょうか?

論理自体が成り立ちません。

何かに反応して苛ついた、傷ついたと思っても、私が傷ついたのではなく、自我が傷ついたという視点で、感情、体感込みで「見ているだけ」です。これは視覚に限定するわけではありません。認識しているというだけというような感じです。

「こういうことを言うと、自分は相手にどう思われるだろう?」ということを考えられる上に、人の目を気にすることがなくなるとどうなるか、というと、好き放題に語りますが、人の目を気にせずに思うままに表現することができます。

なので、もう一度はっきり言っておきましょう。

面接で「今まで何してたの?」と聞かれて、うまく答えられないのが恥ずかしくて、面接に行けずに、自分一人が生きていく分すらも稼げないので、「こんな自分にしたのはあなたのせいだ。責任を取れ」というような概念を使って、身内なり何なりに生活の面倒を見てもらって、社会に対する恐怖を回避しているだけでは?

人に頭を下げずに、それでもお金さえあればなんとかなる、と思い、投資に手を出したり、胡散臭い広告収入狙いのコンテンツを作ったり等々をしながらも、世間と感覚がズレているのでうまくいかないのかもしれませんね。

このような内容を見て、怒っているようでは、その人はその人のままです。

「うまくやろう」と思うことは良いですが、それも手前の意志の属性によって、どこまでも歪み放題になります。

人によっては「人格攻撃をされた!」という感想がやってきたでしょうか?

人格攻撃をして何か得になることがあると思っている人は、「人格攻撃をされた!」ということを思うでしょう。

しかし、生まれつきの気質の方向性やその人がそうなってしまったと考えられる環境は、その人以外から起こっています。

つまり、現象が収束して自我として形成され、その自我の周りに現状の行き詰まり感をもたらす環境があるということになります。

どこにも自分はいません。

しかし「自分という感覚」はあります。

その人の状況はその人のせいではないですが、その人以外の人のせいでもありません。

自分が人の目を気にして恐いからといって、社会の方に「変われ!」と思っている世界に留まりたいですか?

仮にででも良いので、現象と自我を包括した、すべてが「私」だとすれば、何が恐いのでしょうか?

すべてが「私」だとすれば、そんな人も情報空間に漂う可能性世界的なパターンのひとつでしかありません。

考えうるパターンのひとつ、というだけです。

Category:miscellaneous notes 雑記

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

日本語のみ