ほんの少し感傷的な昼下がり

数年前と比べてガラっと変わったことがあります。

一切単独ではお酒を飲まなくなったこともそうですが、ムキになることがなくなったことがその最たるものでしょう。

いまでも、瞬間的にはムキになりますが、長期的にムキになることは一切無くなりました。瞬間的といっても、ほんのわずかな時間というわけではなく、数分程度でしょうか。

それは、誰かへの怒りという類のものから、「頑張ろう」という気持ちも含めて、すべてがゆるゆるになってきました。「頑張ったところで…」というような消極的な類ではありませんが、あまり何事にも力は入りません。こんなことを精神科医に伝えると、「軽いうつ」とでも診断されそうですが、そういうわけではありません。

誰かに認められよう、というようなことを一切思わなくなってからは気楽になったと同時に力も抜けました。この帰結は論理的にたどり着いた先というより、自然にそうなったという方が正しいでしょう。

普通は頭でわかっていてもなかなか受け入れられないような事ですが、なんの努力もなくそういった状態になりました。

また同時に、エキサイティングも無くなりました。つまり何かに夢中という状態もあまりなく、興奮もあまりありません。ただ、集中力という点では以前にも増して強くなっていると思います。

そんな近頃、久しぶりに本を読んでみると、少しだけ感慨深い気持ちになりました。

主人公は19歳。

僕の気持ちもまた、19歳に帰るのでした。

19歳の時の疑問の答え

本を読んで少し感傷的になったのには、やはり19歳の時の気持ちに帰ったからですが、本の中のコントラストが全く同じではないものの、やはり当時の僕の状況に近かったからです。

そして、一瞬だけ怒りと悲しみが押し寄せてきました。

今もう一度会って殴ってやろうかというほどに怒りに満ちてしまいました。

もしかしたらずっと殴りたかったのかもしれません。

本来はそんなことを気にしてはいけませんが、どこかで消化しきれていない気持ちを残しておくのは精神衛生上よくありません。

思うときは思って、感じる時は感じて、その心の動きを見ながら、最後はサヨナラしなければいけません。

何なら忘れていたような思い出です。

もしかしたら思春期の最終章、最後の課題だったのかもしれません。

思い返して考えてみるとたくさんの事柄が複合的に絡み合っています。

その相手は誰か。

それはその当時の彼女のお母さんです。

「こんな負け組と」

今では完治していますが、当時の僕は病を患っていました。

体力も落ち続け、少し体調を取り戻しても5時間のバイトで根を上げてすぐに昏睡するほど体は弱っていました。

そしてそのことはもちろん相手も相手の両親も知っていることでした。

お父さんは優しい商売人で、よく夕食を振舞ってくれました。

一方お母さんは、義務教育のまま大人になったような人でした。

「どうして娘がこんな負け組と」

そういう目で見られました。

病を理由にするのは「大人の対応ではない」ということで、露骨に表には出しませんでしたが、「娘がこんな将来の無いような男と一緒になんてなられたら困る」、そういう態度をとられました。

まだ19歳、大人にもなっていない、だからいろんな「可能性」がたくさんあるのに、「もうこの時点で可能性はない」、そういう扱いをされました。

たまに、自分の子供に「あの子と遊んではいけない」といって、友達を親が選ぶようようなタイプの人がいますが、まさにそのようなタイプでした。

僕には力が無かった

いくらそんな態度をとられても、僕には力がありません。

文字通り体力もなければ、稼ぐ力もありません。もちろん実績だってありません。

ただ、耐えるしかない、見返しようもない19歳でした。

その思いがあったのか、体調が良くなってからはやはり頑張ってしまいました。

「あの人の数倍は稼がなければならない」

そういう思いで、休みの日も勉強しました。

そしてその後、彼女とはサヨナラしましたが、僕は一応の大企業に入り、さらに辞めて独立して会社を作りました。

もうこの頃にはあのお母さんのことは頭にありません。

そして、いつしか完全に忘れてしまっていました。

その人の思考回路

思い返した今、あの時の疑問とひとつの答えが出てきました。

今の状況だけを切り取って判断するという近視眼的思考は愚かであるということです。

ギムキョな人はその場しか見れません。中途半端なその時点での評価だけですべてを決めてしまうという感じです。

商いにおいては、今年は赤字でも、資産があるのならばそれほど問題はありません。そして究極的には資金繰りさえショートしなければ、ひとまず存続することはできます。

19歳の時の状況で全てが決まるわけではありません。

もしかしたら商売人のお父さんは既にそのことを知っていたのかもしれません。

そのお母さんを説得しようとも、いまさら見返そうとも思いません。

「早く安心したい」

そういう気持ちのせいで、結局もっと悪い結果になることがよくあります。

「早く早く、早く安心したい」

その気持ちがたくさんの可能性を潰して、いつまでも不幸な気持ちをひきずる元凶だということはほとんどの人は気づいていません。

よく成長途中の夫をヒステリックな嫁が安定した職業に再就職させようとしたりしますが、そんな嫌な嫁と離婚した瞬間に大成したりします。

ヒステリックになる前に、どうしてまず自分が相手の分くらいも稼ごうとしないのか不思議です。

その前に、どうして夫の稼ぎにタカっているのに偉そうなのか不思議です。

不思議ということで考えてはいけません。関わらないことです。

タカることしか頭にない人と絡んではいけません。

たいてい大成した人の配偶者は、おおらかな人が多いような気がしますね。

嫁が鬼嫁ほど大成するという意見もありますが、それはサラリーマンのような「耐え忍ぶ」ことが必須とされる職種ではないでしょうか。

愛とはボランティアということをもう一度思い返して欲しいですね。

どの時点での切り取りか、どういう視点か

その年の所得や職業がどうあれ、資産があれば問題はありません。

何億という資産でなくても流動資産が数十万あれば、そんなに焦る必要はありません。

「失業した、やばい」と焦る前に、そんなにすぐに資金繰りがやばくなって飢え死にするのか、ということを少し考えて欲しいですね。

そういう時こそ、無駄がよく見えるので、逆に利用するという手もあります。

よく「わしらの生活はどうなるんだ」と年金世代は年金を減らされることに怒り狂いますが、借金で国を発展させたにも関わらず、たんまりもらった退職金のことは頭にありません。

月々の計算しかできない人が、お金の事を語ってはいけません。

そのような感じで、義務教育のままの感覚で育ってしまった人は、あらゆる可能性、潜在的な可能性を無視する傾向にあります。

いわば世間で言うところの、18歳で高校を出て、22歳で大学を出て大企業に勤めるか、お役人にでもなるというルートだけを安心ルートだと思っています。

ただ、どう転んでも、19歳のその時期だけでその後のすべてが決まるわけではありません。

さらにいうと、そうしたルートを辿っても、常にリスクはつきまとっています。長い目で見れば会社の倒産ということもありますし、M&Aで不利な側になってしまうということもあります。また、勤め先自体が大丈夫でも、嫌な上司にあたり、心身を壊してしまうということもあり得るのです。

同じフィールドで生きる必要はない

そして、そんなことを思っている人の考え方を改めさせる必要はないのです。

相手の一種の思想に付き合う必要はありません。同じフィールドで戦おうとしたり、そのフィールドで生きようとすると、どうしても先行者利益というものがあったり、体育会系であれば年功序列的なものも出てきて、相手に主導権を渡したままになります。

社会生活にもたくさんのフィールドがあります。

その中のどれを選択するかは各人にお任せしますが、少なくとも同じフィールドで戦う必要はなく、また、異なるフィールド同士で優劣を決める必要などないのです。

ただ自分が幸せであればいいだけ

ただ自分が幸せであればそれでいいのです。

相手を説得して、相手を黙らせて、それから幸せになるというような遠回りなことはする必要がありません。

その当時は見かえしようもない惨めな状況を味わいました。

でも、その惨めさの原因は、相手にではなく自分の中に「相手の正当性を採用する観念」があったのです。

そこで抵抗すると、相手の「力」を認めることになります。

その議論に勝つ、勝たないは別として、相手と対抗している時点で、「相手は自分の幸せに介入できる力を持っている」と認めることになるのです。

誰に何と言われようが

だからこそ誰に何と言われようが、誰にどんな評価をされようが、「気にすることではない」のです。

もちろん言い返しても構いません。

ただ、その奥にある動機が、自尊心という虚像をベースとして、相手の力を認め、その力に抵抗し「打ち克たねばならない」というものであるのならば、それは煩悩となっていきます。

もし言い返すとすれば、それら感情と理屈を切り離し、相手への慈悲だと思って話すことです。

そして結果に執着しないというところがポイントとなります。といっても、そんな動機で話したのなら執着は生まれません。

「抵抗と執着」と「慈悲」

自尊心回復のための相手への抵抗という動機ならば、執着が生まれます。しかし、それを目的としない限り執着は生まれないのです。

そうして過ごしていると、先の義務教育のまま大人になったような人が現れても、何とも思わなくなるはずです。

本人がそれで幸せそうなら「よかったなぁ」と思えるようになるでしょう。

でも不満そうで、自尊心が欠落しながらも、そんな安心ルートではない人を見て優越感に浸っている姿を見ても「なんだか憐れだなぁ」と思えてくるはずです。

そんな時に自分の自尊心というものに実在を与え、その自尊心の欠落の危惧から相手への抵抗を行うことで、「何としてでも勝たねばならない」という執着や自分の今の状況に対する執着、そして相対的な比較によってそれよりも高い地点にいる人に対する嫉妬などが生まれることになります。

そうなると、全てが苦しみのタネとなります。

一方、慈悲で捉えた場合は、自尊心回復の必要性がありません。

相手をどうこうして、自分の感情をコントロールしようということがなくなり、「相手は自分の幸せに影響を与えない」という状態で過ごすことが可能になります。

自分で勝手に決めた基準で人を比較し優越感に浸る人を蔑むという感覚でも何でも無く、ただ「憐れだなぁ」と思うようになるはずです。

そして、「その虚像が君を苦しめているのだ。いつか気付き、幸せとなりますように、苦しみを感じることが無くなりますように」

ということを僻みでもなんでもなく思えるようになるでしょう。

無限の可能性

そして、相手に変わってもらわなくても、自分には影響がないという感じになります。

そのうちに今まで人を見て「羨ましい」と思っていたことなども、特に何とも思わなくなります。

人に対する嫉妬や人の持つ優越感に対する怒りは、ただ単に「相手に力を与えていた」ということでした。

抵抗はそれを支え、依然として相手のもつ「力」を本物かのようにしてしまいます。

そのような感覚から脱して、今まで体験してきた色々なフィールドの可能性を一つずつの提案、「どうありたいか?」を考える材料としてだけ考え、それに視点を向けましょう。

もしそんな提案が不足していると感じるなら、提案を見るという形で意図してみましょう。

そうすれば自ずと今まで見えてこなかった無限の可能性に気付くはずです。

まずは、他人を条件とせず、社会を条件とせず、自分の状況をも条件とせず無条件に幸せになってください。

そしてその体感を元に、幸せ感が目の前の現象としてどう表現されていくのかを楽しみにしましょう。

可能性の数だけ、表現の数はあります。

そんな中で、わざわざ特定の誰かの意図に自分を合わせる必要はないのです。

Category:うつ、もしくはうつ気味の方へ

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