超人的な情熱に対する信仰のもつ価値
―突然で一度だけの約束から永遠の義務を調達した、制度や風習のことを考えるがよい。そのたびごとに、そのような改造によって極めて多くの欺瞞と嘘が生まれた。また、そのたびごとに、しかもこのような犠牲をはらって、新しい超人的な、人間を高める概念が生まれた。 曙光 27 嘘をつかねばならなくなるなら、原則的に約束はしてはいけません。 ただ、約束をした時点ではわからなかったことが追々わかってくることがあります。その時に約束を守ることを重点に置いてしまうと、ウソをつかなければならなくなります。 最もよい約束の仕方 約束といえば、
動物と道徳
拝金主義というのはどこまでも拝金主義に徹していきます。だからこそ一部の動物を「経済動物」という呼び方をしたりします。 経済動物という表現は、つまり「儲かればいい」であり、「儲けもできない上に、金がかかるなら殺す」です。 疚しさに対しての自己説得でしかなく、動物に対して経済動物や産業動物という呼称を用いる人間にロクな人間はいません。 経済動物という言葉 経済動物という言葉は、若干の疚しさを持ちながらも、「自分はいい人だと信じたい」という時に自己説得を行う場合に用いられます。 動物も懸命に生きています。 自然界のルール
風習と美
握手というものは、万国共通だということを聞きますが、ネパールで友人のお兄さんに初めて会った時に、右手で握手して、さらにいつもの癖で左手を添えると怪訝な顔をされました。 インドやネパール等々、一応あの文化圏では、左手は不浄の手とされていて、トイレに行った時でもトイレットペーパーなどを使わずに、原則左手で洗うようですから、確かに怪訝な顔をされるのはわかるような話です。 が、握手の際に怪訝な顔をしてしまうくらいなら、そんなこだわりというか風習はやめたほうがいいのではないでしょうか。 嫌な気分発動条件 それは文化の押しつけ
命令の証明
一般にある命令 ―の良し悪しは ―それが厳密に実行されたとして、その命令の中で約束された結果が生じるか、生じないかによって証明される。 道徳的な命令の場合は― ほかならぬ結果が見通されえないものであり、あるいは解釈しうるものであり、曖昧である― この命令は、全く学問的価値に乏しい仮説に依存しており、この仮説の証明と反駁とは、結果からでは、根本的に同様に不可能である。 曙光 24 抜粋 毎日何かに拝んでいて、しばらくして病気が治った、と。 しかしながら病気が治ったことを根拠に「拝んだから治った」といっても何の証明にな
われわれのどこが最も精巧であるか
自律訓練法というものをやったことのある人は経験があると思いますが、思うだけで本当に手が温かくなったりします。そう感じるだけでなく本当に温かくなるのだから、錯覚でも何でもありません。 自律訓練法は、右手が重いと意識するだけで本当に重く感じてくる、右手が温かいと意識すれば、右手が本当に温かく感じられ、実際に体温も上がったりするというようなものです。それを両手両足でやったり、「頭が涼しい」というような感じで進めていくものです。詳しいやり方は調べればすぐに見つかると思います。 自分の意図した時間に起きる それをさらに進める
仕事と信仰
依然として新教徒の教師たちによって、一切はただ信仰次第であり、仕事は信仰から必然的に出てくるはずであるというあの根本的な誤謬が植え付けられている。 曙光 22 仕事と信仰ということで、信念として持っていることや信仰として持っていること、そして話していることなどと仕事内容に矛盾があるケースについて思うことがありますので、そんな感じで書いていきます。 特に職業として宗教関連の仕事(?)をしている人は、言動の不一致など、信仰と行動との矛盾を感じないのかということをよく思います。 職業としての宗教家であれば、普段儀式的なこ
法の履行
本来的に罰則規定のない努力義務規定というものは、民事的な賠償問題に発展した時に加味されるようなもので、特に「白い靴下しか履いてはいけない」というような義務教育の「校則」というものは、何の拘束力もないようなことです。 学校教育においては、一応相談室に呼び出して、拘束し、指導することが「正当」になる根拠として置かれていますが、その「校則」自体の正当性はどこにもありません。 私立の学校なら、私立の学校法人が教育というサービスを提供するにあたり、その利用規約として定めている、というようなこともまかり通りますが、公立の中学校
自由行為家と自由思想家
自由行為家と自由思想家という感じで、「自由」が強調されていますが、肩書きに「自由人」というふうに書く人は、あまり好感が持てません。そんなことは他人に主張するようなことではないからです。 自由行為家や自由思想家は、いわゆるそのエリアの宗教前提の発想や風土・文化に縛られずに自由に行為する、自由に思想を展開していくというような感じです。 その言葉の裏には、西洋であれば聖書の記述は絶対だという前提から考える人達がいて、「自分はそういうところから考えを始めたりはしないぞ、もっと自由に考えるぞ」というような感じが潜んでいます。
倫理と愚化
風習とは、利益になるあるいは害になると思われるものについての、昔の人間の経験を代表する。 ― しかし風習のための感情(倫理)は、ある経験そのものに関係しないで、風習の古さ、神聖さ、明白さに関係する。そしてこれによってその感情は、人が新しい経験を重ね、風習を修正することに反対の働きをする。 ― 倫理は人を愚化する。 曙光 19 株式会社は利潤の追求を目指しますが、利潤が最大化するように働かせるために組織化し、階層化したりします。 その組織化・階層化の最大の目的はあちらこちらで個性を出されるより、ある安定的な手法、明確
自発的な意志による苦悩の道徳
友人が自発的に「新興宗教に入った」と告白してきたことがあります。 実はそれは後に告白されたというより、その宗教団体に属しているということを先に知ってから、友達になったのですが、僕はご周知の通り宗教には絡んでいません。宗教ではないというような団体にも属していません。 新興宗教・カルト宗教はもちろん、それに類するような団体には関わりたいと思いませんし、それどころか宗教に絡まなくても何かの団体に入ったり、団体を形成して群れたいとすら思いません。そういうことはライングループで盛り上がって「絆」が大好きな人がやることだと思っ
よい自然と悪い自然
自然か人混みかの二択なら、断然自然によく行きますが、三流のコンサルですら何かの本で読んで知っているように、自然を見て「いいなぁ」と思える原因としては、「視界が開ける」ということが一つのポイントになります。 これを何処かでサービスとして味わおうとすると、ただ単に視界が開ける、ということを味わうがために料金は数倍になったりしますが、それでも需要があるということは、それだけ不自然な状態の中にいつもいるということでしょうか。 自然はいつでもどこでもそこにあるのに、それに目を背けているために自然を求め、無駄にお金を払って自然
文明の最初の命題
野蛮な民族にあっては、その意図するところが要するに風習であるように思われる一種の風習がある。 綿密すぎる、そして根本において余計な規定がある。 曙光 16 序 余計な規定はこの世の中にたくさんあります。 「それがみんなのためになる」とか、「地球温暖化防止のため」など、なんでも理由をつければ相手は従うだろう、というようなもので、自分の都合だということは隠しながらそれが文明だと主張し、相手への服従の強制とは表立っては言いません。 この風習、文明、そして余計な規定を作る側も問題ですが、それよりも問題なのは、そういうものの
最も古い慰めの手段
人が慰めを欲する時は、自尊心が欠落した時です。自尊心の欠落は本能的恐怖心が社会的フィルターにかけられた時に顔を出してきます。 世の中には、自尊心の欠落を食い止める、もしくはその充足に関する提言で溢れていますが、自尊心自体が虚像であり、それに関する解明解決策は、アイツの内で踊っているだけです。 最も古い慰めの手段ということで、自尊心を回復するために慰めを欲する時に出る欲や怒りについてでも触れていきましょう。 気質によって「欲」と出たり「怒り」と出たり 自尊心が欠落し、慰めが必要だと感じたとき、欲と怒りのうち、欲が強い
道徳の歴史における狂気の意義
狂気という言葉は、「みんながやっていないことをやっている」という意味で、常識はずれの範疇にあります。 その常識はずれの中でも自分に害がありそうなものは「狂気」になり、自分の利益になりそうというようなことは「偉業」などと言われたりします。 無害というかほとんど自分とは関係なさそうならば、印象は「変な人」くらいのものです。 それくらい人の評価と言うものは自己都合によって変化してしまいます。 かつてのナチスも、暴力的な支配ではなく民主主義によって動いていたので、その時代のドイツにおいては彼らの行動も国内の評価としては偉業
人類の新しい教育のために
たまに掲示板みたいなところに標語が貼ってあったりします。 標語を集めて意識を高めようというのは義務教育と公務員の発想ですが、実際に選考に関わる審査員はやっぱりギムキョなので、何が問題かということに気づいていないことがよくあります。 たとえばこのような標語ですが、まず「君なんだ」ということで、どうして他力本願なのか、という疑問が残ります。 つまり、「あなたはしないんですね」というようなツッコミが入ることを想定していません。 逆に「僕なんだ」とか「私なんだ」、とか言うのも、他力本願ではないものの、少し傲慢なような気がし
付加物としての結果
昔、人々は、行為の結果ではなくて、自由な付加物―つまり神の付加物であると信じた。これよりも大きな混乱が考えうるであろうか! 曙光 第一書 12 行為の結果ではなくて、それが「もたらされた」というような勘違いですが、どうしてそのようになるかというと、アイツにはその因果関係が理解不能だからです。 それよりも少し小さい混乱としては義務教育の混乱があります。 「みんなで頑張ったんだから成功したんだ」というようなものです。 どう転んでも失敗という解釈などありえない割に「成功したんだ!」と「夕日に向かって走っていけ」的な感動を
民間道徳と民間療法
民間道徳であっても、それが心をきれいにするようなことであれば、基本的には問題ありません。基本的には問題がないのですが、それを条件化してしまうので、最後の壁で結局逆戻りしてしまうことがあります。 たとえば、苦しんでいるような人を民間療法で苦しみを一時的に解除することはいいですが、その民間療法を条件にしてしまうとそれに捉われていきます。 ということで、民間療法と言っても精神・心に関する療法(?)のようなものとして占い・占い師についてでも触れていきましょう。 占い師 占い師に「あなたは大丈夫」と言ってもらって、ひとまず騒
倫理の感覚と因果関係の感覚との相互運動
倫理の感覚と因果関係の感覚との相互運動ということで、ニーチェはまさに曙光のこの項目で、核心に迫るようなことを言っています。 「必然的な作用を把握する」、つまりあるがままの因果関係だけ把握できれば、アイツの特性である、空想的な因果関係が破壊されるということについて触れています。 空想的な因果関係を観察する 「空想的な因果関係」とは先に触れたような風習によってもたらされる倫理的規定からもたらされる妄想であり、アイツの得意とする「関連思考」に無意識的な信念まで組み込まれてしまっているような状態です。 つまり、迷信のような
風習の倫理の概念
倫理とは、いかなる種類の風習であるにせよ、風習に対する服従より何ものでもない―。 風習とはしかし行為と評価の慣習的な方式である。慣習の命令が全くない事物には、倫理も全くない。 曙光 9 一部抜粋 さて、風習とはいったいどのようなものでしょうか。 「風習とは、行為と評価の慣習的な方式である」という感じでニーチェは語っていますが、まあたいていは各地域、土地ごとの文化的な風俗習慣を略して風習と呼んでいます。まあいわゆる「ならわし」ですね。 風習という言葉 風習という言葉は、よく「文化・風習」というふうにワンセットで語られ
変容
「ずっと変わらないもの」というものはありません。それは自分が過去との対比との中で変化を検証している対象のみならずです。 変容(へんよう)とは、一応姿形が変わることを意味しますが、変化との違いとしていろいろな説明がなされています。変化は物理的変化であり、変容は質的変化であるという定義や、変化は可逆性をもつが、変容は不可逆性を持つというような感じです。 変化と変容 例えば粘土やプラスチックを変形させる場合は変化で、人間の性格が変わった場合は変容であるというような感じのイメージになりましょうか。前者は一応元のような形に戻
空間感情の学び直し
たしかなことは、最高の幸福と最低の不幸の間の空間の広さは、想像された物の助けを借りてはじめて作り出されたということである。 曙光 7 一部抜粋 最高の幸福を自己啓発ウェーイは「最幸」と書きます。それだけで新興宗教のような胡散臭さが拭えません。たしかなことは、最高の幸福は、群れてウェーイすることではありません。 幸福と不幸の間に空間があって、その間には多様な感情があるというように定義されそうですが、不幸な状態というのは、引用のとおり「想像された物の助け」によって生み出されています。 教養 「教養」という言葉があります
奇術師とその反対
マジシャンの方は、複雑な因果律を単純な因果かのように見せ、学問は単純な因果律を複雑なように見せて単純な因果律を放棄させる。 ニーチェはそのようなことを言いましたが、これはアイツの特性でもあり、また単純に大学の授業のことを言っています。 ということで簡単なことを難しくし、単純な因果律を放棄してしまうということについて触れていきましょう。 単純な因果律を放棄してしまう 「学問は単純な因果律を複雑なように見せて単純な因果律を放棄させる」 最もわかりやすいのが経済学かもしれません。すごく簡単なことをわざわざなんとか曲線、な
感謝しなさい!
どうして命令されなければならないのか、多感なティーンの頃には悶々と考えなければなりません。 感謝というものはこちらが一方的に即時的に、わき上がってくる性質のもので、「感謝しなさい!」の一言は、感謝している素振りをしなさい、ということになってしまいます。 どれだけありがたい状況か考えてみなさい もしくは「どれだけありがたい状況か、考えてみなさい」ということですが、そんなことは「笑いなさい」で有名な瀬戸内寂聴氏のコラムにとどめておいていただきたいですね。ひとまず命令形はやめておいたほうがいいと思います。 「感謝しなさい
夢想された天体不調和に反対
ニーチェは時々こういった、自称アーティストの劇団員がソーシャルネットワークでつぶやきそうなことを言います。ただ、これはタイトルであって、続きがあります。彼には彼なりの考えがあったので、今回は引用します。 夢想された天体不調和に反対。―われわれは多くの誤った雄大さを再び抹殺しなければならない。それはあらゆる物がわれわれに要求する正しさに反対するからである!そこでこのためには世界を事実以上に不調和に見ないようにすることが重要なのだ! 曙光 4 戯言の領域を離れませんか、ということですが、肝心なのは「見ないようにする」と
物には時がある
物が物として存在するためには時間が必要になります。 すごく簡単な話で、認識するためには時間が必要だからです。 認識がなければ物は存在していようが、存在していないのと同じです。五感のうちのいずれかに認識されなければ、無いのと同じです。 そしてほんのわずかでも認識には時間が必要になります。ストップウォッチでは測れないほどの時間かもしれませんが、時間が必要になります。 もし時間という解釈がなければ、五感は働きようがありません。時間の解釈は一応意識が行っています。つまりアイツの領域です。 実際には物が存在するというよりも主