電車で隣に掛けた客の本

久しぶりに電車に乗る機会があったので「電車で隣に掛けた客の本」を観察すべくあたりを見回してみました。車内の中で2名が本を手にとっていました。サイズ的に文庫で、おそらく小説の類でしょう。

電車の中は物理的にも動きが制限されていますし、公共の場でもあるのでできることは限られています。

そんなこともあってか、行動が制限されていて気が散りにくいという意味で、電車の中はまあまあの集中力を保つことができる環境ではありますが、他人さんがいるので気が散るという要素も含んでいます。

電車の中で読書

電車の中こそ読書が進むということを言う人も結構いますが、その要素は大きく分けて二通りあり、ひとつは先のように他の行動が取れないので気が散らないということで集中して読めるということになります。

もうひとつは、わざわざカバー無しでわざわざ英書を読む人のように、知的活動をしているということを周りにアピールしたいというような要素です。まあカバーありでも自意識過剰だということになりそうですが、概ねカバー無しで英書を読んでいる人は眉間を中央に寄せ気味でいかにも知的活動をしていますというような空気を演出しているような気がします。

学習に関する自律精神

そういえば、知人で法曹関係の仕事をしている人は、大学生時代にあえて長距離の通学という形にしておき、毎度毎度わざわざ長時間電車に乗るという形を取っていたそうです。

その理由は電車内で本を読み、学校等々では書きながら勉強するという形式が最も効率的だということに気づいたからだそうです。

その理由は男性的かつZ会的な理由になりますが、自宅の中にいたり、学校から家が近いと○玉の衝動に勝てず、気が散ってしまうからこそ、自分の選択肢をあえて制限するというのがよかろうと思って選んだ生活スタイルだったということのようです。まあいわゆる「自律」の世界です。

通常考えられる合理性からはかけ離れていそうですが、己の意識をよくよく観察したからこそ理性で工夫をすることができたという感じになるでしょう。

集中するということに関してある程度の技量がないと、気が散るということに対して、集中しようと思うことすらも気力を消費してしまうという構造があります。

そうでなくとも、自由であることが選択のストレスや慢性的な緊張を招く、ということもよくあります。なので、煩いのもとになりそうなものはある程度削ぎ落とすというのも一つの手です。

そういうわけなので、工夫できることがあれば工夫しておくに越したことはないはずですが、インターネットの常時接続を筆頭に「自由度が高い方がすばらしい」ということを疑うこともしない状態にあると、知らずしらずにエネルギーを浪費してしまいます。

といってもその方のように何かしらの目標などが無い限り、そうした自制心をあえて獲得しようとか、目標のために自律精神の上で環境を整備するということすら起こりえません。

なので、何かしらの目標などが先に無いと、自律というものは起こり得ないのかもしれません。

笑う月(一覧)

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「電車で隣に掛けた客の本」への2件のフィードバック

  1. 冒頭英書のくだりですが、それはあなたの嫉妬じゃないですか?
    眉間にシワを寄せていかにも知的活動をしていますという雰囲気なのはその通りで、「当人にとって」難しい英文を一生懸命読み進めている様子が目にが浮かびます。
    その様子をひけらかしていると受け取り小馬鹿しているようですが、はたしてそうでしょうか?
    英語教育の低年齢化が進む中、大人が難しい顔して英書を読むなんて微笑ましいことではありませんか?
    カバーなしの英書には白ブリーフ同様に虚栄心のなさを感じましたがいかがでしょう。

    1. 良い機会なので嫉妬について触れておきますが、嫉妬は、「それがないと心が落ち着かないという要素があり、それを求めるものの自らには不足しており、それを持つ他人を妬ましく思う」というようなことになります。
      それがなくても困ったことは起こりませんし、そのような執着を保有していないので、嫉妬ではありません。

      文語的かつ論理的に「その行為を為す人は、そのような属性である」と、厳密にイコールで示したわけではありませんのであしからず。

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