世の中では、事あるごとに「大人になったらわかる」というような言葉を使う人がいたりします。たいてい脳筋体育会系に多いですが、世のほとんど全てのことは「ならなくてもわかる」というのが本当のところです。
この「大人になったらわかる」といったタイプのセリフは「一人暮らしをしたらわかる」とか「社会人になったらわかる」「部下を持てばわかる」とか「親になったらわかる」「子を持てばわかる」といったようなものになります。まあ一種の先輩ヅラというか先人ヅラというか、といった感じですが、「先輩を敬え」的な脳筋体育会系の儒教的な感覚がふんだんに含まれています。
しかしながら、この手の言葉の対象となったようなことで、実際に「なってみないとわからなかった」ということは、個人的にはひとつもありません。「こんなにもか」と想定外だったものとして、「従業員が遊んでいる時の苦痛」と「急にやり始めた就職活動」というものが例外的にありますが、それも構造としては理解した上で、「感覚の強さが若干想像以上だった」というだけです。ということで、それすら「ならなければわからなかった」というものではなく、質的、量的問題です。
「人任せ」から「自分でやる」へのギャップ
たいていこうした「大人になったらわかる」、「一人暮らしをしたらわかる」、「社会人になったらわかる」、「親になったらわかる」といったセリフを偉そうに言う人は、自分自身がそれまで人任せにしてきて、急に責任を負う立場になったりしたような人であり、単に「ギャップが凄かった」というタイプの人達です。
すなわち、こうした言葉を使う人達は、無責任で人任せだった状態から、急に責任を負い、自分で行うようになったという激しいギャップあって、急なことで右往左往しつつも自分は成し遂げたということを誇りに思いたいというだけだったりします。
しかしながら、本人としては辛さを乗り越えた自分を誇りにしたいとは思いつつも、周りとしては「それまでが甘えすぎてただけなんじゃないか」と思ったりもするのであまり評価されません。
そして誇りを保てず自尊心が欠落してしまうので、すごい人だと思われよう、尊敬を獲得しようと思い「大人になったらわかる」、「一人暮らしをしたらわかる」、「社会人になったらわかる」、「親になったらわかる」といった言葉をまだ未経験の人たちに偉そうに説いたりするのです。
聞かされる方としては、まだやったことがないのだから言い返しようが無いような構造になるため、基本的には言い返しがやってきません。なので、簡単に自尊心を獲得し放題というような感じになっています。
ということで、「簡単に誇りを手に入れられる」ということの味を覚えた人たちは、自分よりも若い人や未経験の人を見つけ出し、「大人になったらわかる」的な話題に持ち込もうとしたりします。
「親のありがたみが分かるぞ」
20歳前後の頃、親のお金で一人暮らしをしている人達に限って「一人暮らしをしたら親のありがたみが分かるぞ」ということをよく言っていました。しかし残念ながら、一人暮らしをしなくてもありがたみなど高校一年生くらいの時には既に分かっていましたし、その後、色々と経験をしましたが「そのありがたみ感が変化した」ということもありません。
「靴下を部屋に脱ぎっぱなしで、たいてい片方が行方不明になる」というような人たちに限って「一人暮らしをしたら親のありがたみが分かるぞ」ということを言ったりしますし、そうした子を持つ人も同じようなことを言ったりします。
「いろいろとお母さんがやってくれてるんでしょ」
そういえば勤め人時代、営業先の人に、稀に「いろいろとお母さんがやってくれてるんでしょ」というような事を言う人がいました。
「あなたの息子と一緒にしてくださんな」
の一言です。
というよりもお母さんがいない人も世の中にはいますから、その言葉だけで「雑」なことがすぐにわかってしまいます。
「親に学費を払ってもらって大学行かせてもらって」
ちなみに「親に学費を払ってもらって大学行かせてもらって…」みたいなことを言う人もいました。しかし残念ながら特殊ケースになるかもしれないものの、僕は大半の学費を自分で払っていました。株の譲渡益だったり、働いたお金だったりで賄いましたが、それでも一応住む実家があるというだけでありがたいと思っていました。
ということで、
「勝手な想像でモノを語るなよ(笑)」
と思ったりしていました。
高校の同級生の中には、すごく成績も良い中、親御さんが病気で亡くなり、家庭を支えるべく進学せずに就職した友人もいました。「昔から病気で寝込んでて、兄貴も働いてるからなぁ」ということで就職していきました。なので「両親が元気なだけでも恵まれているなぁ」と思ったりしました。
という感じなので、何かにつけて「大人になったらわかる」的なことを言う人は、様々な状況を想定できないのでしょう。そして、こちらが若いというだけで全てにおいて先輩ヅラができるとでも思っているのでしょう。脳筋体育会系丸出しです。
まあ別にほぼ自力で学費を賄ったからどうのこうのということは思ったりはしていませんし、別に学費をはじめ、親御さんに一人暮らし代を出してもらっているというのも問題はありません。
問題があるとすればその先であり、若い人や未経験ぽい人を捕まえては、「おまえも〇〇になったらわかる」というような論調で傲り、偉ぶることという感じになるでしょう。
経験と想像を組み合わせれば「ならなくてもわかる」
「おまえも〇〇になったらわかる」というようなことを言う人がいたとしても、残念ながら経験と想像を組み合わせれば「ならなくてもわかる」というのが本当のところです。
自分で手配するとか、人や動物の世話をするとか、人に頼み事をするとかというしたことを経験しているのであればあとは組み合わせだけの問題です。
そして足りないような要素も、映画、小説、マンガ、アニメ、ゲーム、そして人から聞くお話で疑似体験しておけば、それほど不足は起こりませんし、構造を理解することは簡単になっていきます。
様々な物事、経験には非言語的な要素がありますが、「おまえも〇〇になったらわかる」など言っていないで、わかるように説明してみれば良いのではないでしょうか。
もちろんどうしても伝わらないような感覚的要素というものはありますが、たいていそうした論調の中で出てくるような分野のものは、言語化して話すこともできるような話ばかりです。
ということで、言葉を紡ぐことができないからと言って、「なったらわかる」というような一言で論証は棚上げし、「こっちは先輩だぞ」と、相手にマウントを取るような姿は愚者にしか映りません
例えば、文学や美術では具体的に示し得ない抽象性を持ったものを、言葉や色彩を紡ぐことで、抽象的な印象として示そうとしたりしています。
そのような感じで、語り得ぬようなことも何とか語ろうとする者もいる中、語り得るのに「なったらわかる」などという言葉を使うのは、愚者である証です。そしてその裏には傲りと自尊心の充足という要素が含まれているため、二重に愚ということになります。
なお、ついでに言っておくと、「自分と同じ状況の人ではないとわからない」というような感じの話し方も良い話し方ではありません。
例えば、うちは両親が健在ですが、父がいない人の気持ちとか母がいない人の気持ちはその人でないとわからない、ということを言われても、「あなたも両親がいるからこそ起こるような気持ちがわからないでしょ」ということになってしまいます。それに離別と死別では異なりますし、全てのパターンの経験を実体験として網羅することは論理的に不可能なので、そうした論調で話すこと自体が適切ではありません。
結局それによって相手は黙る、何かしらマウントが取れるというような程度の意図でしょうが、それによって憐れみを乞われても致し方ないという感じになりますし、ニーチェ風に言うと「癪に障る」という感じになります。
最終更新日:
bossu様。
こんにちは、ご無沙汰しております。
気になる記事でしたので、またコメントを添えさせていただきました。
今回もよろしくお願いします。
全国各地でも似たような言い回しがあるものなのですね。
とはいうものの、僕も周りから鬼の首を取ったように散々言われてきております。
だけど「〜になれば分かる」は、聞き手から見ると相手はどこか悲観論的に突っぱねているような哀れさを感じてしまいます。
よく分からないけど、なんだか寂しい結論だなぁ….。と思います。
こちらからすれば、それは優越感でもキャリアにものを言わせたわけでもなく、ただの自閉行動であり、しかもその締め切った扉のカギの保持者も相手側にあるのではないかと。
実際に体験していない身分でも、よりよい自分の務めに励んでいるつもりですし、確かにまだまだ青二才かもしれませんが、かけがえのない想像力や知識、考えだってあります。
「〜になれば分かる」
それで分かりましたか、分かったのですね。
それがあなた達の線引きラインですね。
耳を傾ける気すらなさそうですしね。
ならばあなた達には、その脳みそは無駄に大きすぎたのかも知れませんね、と。
更地にアスファルトを敷き詰められ、住処を奪われる小鳥達のように、そう結論づけられてしまえばもはや弾ませる会話など微塵もなく、残念ながら打ち切るしかないのです。
ただそう言った常套句を日常会話のなかでブッ込まれると首根っこを掴まれたようにビックリしちゃうので、唐突に遮断するような迷惑行為はやめていただきたいと思います。
その後も頭上に「?」を出しながら無機質な目でジロジロ見てきたり、しかもそれを周りに良かれと思って広めてくれるものですから、本当….もう許してくれとか思うんですよね。
コメントどうもありがとうございます。
「~になればわかる」というのは、傲りを含んでいれば一種の上下を示す意図があり、そうでない場合は言葉が見つからず、話を切り上げたいというような意図がある感じになっています。
この手の常套句は、それが出ると聞かされている側としてはそれ以上なかなか言葉が出ないため、相手を蔑み自尊心を高めたい時や、都合が悪かったり言葉が見つからなかったりで話を切り上げたい時の使い勝手の良い伝家の宝刀のようなものなのでしょう。
そして、こうした「経験しないとわからない」というような点を利用して自己都合を押し付けてくるという場合もあります。
しかしながら本文中のままとなりますが、経験しなくても分かる場合はわかりますし、それを理由に何かを主張するなら、せめて例えるなり何なり、わかるように努めるということは必要になると思います。
コメントありがとうございます、夜分から失礼致します。
すみません、返信遅れました。
本人がそう帰結させる分にはコチラは関係ないと言えばそれまでですが、結局「〜になれば分かる」も最終的にはその人自身が心で受け取り感じたものでありますから、その状況に出くわさなければと結論付けるのは….はまた違いますよね。
なので、体得した本当の原因でもないのだと思いました。
「そのシチュエーションが教えてくれた」に頼りすぎることは、外界的な依存にも繋がるものとして考えますので、なるべく仮観に惑わされぬよう自身の務めに励みたいものですね。
それでは、またコメントを寄せさせていただきます。
また、ぜひお話したいです。
この度もメッセージをくださいまして、心からありがとうございました。
再度コメントありがとうございます。
人が何かを発する時、その裏には原因がありますので、もしかすると言語的理解よりも単なる感覚的な共感を欲しているだけかもしれないと思うフシもあります。
そして欲するということの原因を考えていくと、何かしらの苦しみを感じているのだろうということも思ったりします。
それではまたいつでもコメントをどうぞ。