世の中には、外見や身分のようなものを判断材料にしている人がそこそこいます。その方が手っ取り早いということなのか、一種の恐怖心から「あちら側、こちら側」という壁を作るような感じで、時に拒絶し、時に許容します。
しかしながら、とりわけ身分的なものとして「今すぐにはどうにもできないこと」がたくさんありますし、直近の状況だけでその人の一生、全人格を評価することはできません。
そして「だったらどうなんだ?」としか思えないようなことを評価対象にしていたりします。その奥には「そうならば自分は経験済みでその全体像がわかるが、そうでないならば、きっと齟齬が生まれるだろう」というものがあります。
その対象に合理性があるのであれば良いですが、「年上の方が偉い」「襟付きでないと失礼だ」というようなことを筆頭に、少し考えれば何の根拠もないことばかりです。そのような突き詰めると合理性がないようなことも対象になっているので困りものです。
先に生まれているのだから相手は経験済みでも、こちらはまだ未経験であるというような、「どうしようもないようなこと」を理由にしてくることもあります。そしてさらに、どうしようもないどころか、必ず要るという意味での「する必要」、「なる必要」のないようなことも対象にしてきます。
直近の状況だけで人を判断
ということでよくわからない基準を元に直近の状況だけで人を判断してきます。
しかしながら、腹痛の直後、憔悴しているの時に接して「あなたは覇気がなく精神が暗いですね」などと評価するのが馬鹿げているように、今の状況だけの判断で全てを判断することはできません。
ということはわかりそうなものですが、それと同じような構造のことをしている人はちらほらいたりします。
浪人生の時は、見下したような態度を取り、大学に入れば手のひらを返すように評価を変えるというような事例がわかりやすいのではないでしょうか。フリーターのような生活をしていた人が、大企業に入った途端、背筋を伸ばしたりするような感じです。
その実際を知らないような人たち
個人的な経験則ですが、こうした態度を取る人は、特に自分自身で戦いに参加したことのないような、何にも挑んだことのないような人が多い印象があります。結局リスクを「回避」することに意識が向いているような形で安全を優先し、様々な現場のその実際を知らないような人たちです。僕の親戚もそれに該当する人がいますが、社会にあまり出たことがない主婦や、学校を出てすぐ親の仕事を継いだ人、公務員のような試験が基本のような環境にいるような人に多い印象があります。
そうした人は、「以前大企業に勤めていた」ということを話すだけで安心したりします。また、肩書に弱いというかなんと言うか、といった感じになりますが、某大学や行政機関から謝金をもらって起業分野の相談やコンテスト審査員をしていたというだけで態度を変えます。
そんな態度の変化を見ると、
「詐欺のお金で手に入れた高級車でお出迎え、の詐欺師に引っかかるんだろうな」
ということを思ったりします。
「もったいない」というような言葉
大企業に行っていた友人が会社を辞めた時、周りの人の多くは「もったいない」というような言葉をかけたそうです。
しかし僕は、「その方がいいよ」と言いました。
表面上の労働環境は良さそうでも、実際はそうでもないということはいくらでも事例があります。恫喝、無休労働、そんなことは表面に出てこないだけでいくらでもあります。
また、その先が見えてしまうという面もあります。
結局行き着くところは、ストレートにいけば「犠牲ということがよく似合ういつも疲れている大人」、良くても「自分が嫌いなあの上司のような大人」になる程度であるような感じが見えてきてしまうような感じです。
というような状況が見えない人ほど、
「もったいない」
というような言葉をかけます。
しかし僕は本人の感覚、そして意志決定を尊重します。
中身は一緒
今まで、スーツ姿でいると背筋を伸ばして挨拶し、パーカー姿ならば無視をするような人をたくさん見てきました。
普段は目を合わさないような人たちが、「何となく家庭を大事にしていそう」と思われるような物を持っている時は微笑むというような様を垣間見たこともたくさんあります。
「中身は一緒なんですけど」
のひとことです。
ということなので、普通はそうした「あなたもこちら側なんですね」という安心した態度を取られると、こちらも安心したり、時に喜んだりするものなのでしょうが、自我領域では瞬間的にロック精神、パンク精神が反応してしまい、道端につばを吐くような態度を取ってしまいそうになります。
やはりそうした反応の根底にあるのは、「ほんの少し感傷的な昼下がり」で触れていた19歳の時の思いなのでしょう。
「反骨精神」は相手にコントロール権を与えてしまう
しかし、だからといって相手に対して反骨精神のようなものを持つというのは、少なからず相手への依存がある、相手にコントロール権を与えているということになります。
だからこそ、喜びもせず、怒りもせず、悲しくもならず、嘆きもせずという姿勢が最も良いということになります。
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ただ、精神としてはそれでいいですが、非合理的なことを理由に非合理的なことを押し付けられそうになった場合は、それ相応の対応をするということも必要になってきます。
そして時に、そんな相手を軽々しく扱うために「相手が安心しそうな感じで挑む」ということも挑み方の一つとなってきます。
その方が、相手に合わせてコントロールされているように見えて、精神としては余裕を保ちながら、実質的に相手をコントロールしていることになります。
それは、表面上は同じように見えても、「嫌われたくない」というようなものを含めて相手に恐怖心を持ち、消極的に相手に合わせるというようなものとは別物となります。
無明の中を彷徨う人
さて、勝手な基準で「今すぐにはどうにもできないこと」を理由に侮蔑の意をもって接してくる人についてですが、そうした人は、勝手な基準を元に、さらにその後の変化も想定できない中で勝手に傲りに耽っているという意味で何重にも「愚」を重ねているということになります。
そういうわけなので、その手の人を相手にする必要はありませんし、とりわけ特に実害がない限り、その場で何かについての議論を決着させる必要はありません。
ただ、「あなたはこちら側ですか?あ、こちら側ですね」と勝手に判断して勝手に安心している人は、そのまま安心してもらっておいていいのですが、「こちら側ならば、一緒にあちら側を侮蔑しましょう」というようなことには乗ってはいけませんし、「こちら側であるのならば、それを示すためにあれをやりなさい」などと強要されるようなことも回避していかねばなりません。
その手の意志に沿うように承認されることを欲し、承認されれば喜ぶなどということを避け、虐げられたとしてもそよ風が漂った程度に扱わねばなりません。
そうしていると、印象的にはそんな相手が「無明の中を彷徨う人」に見えてくるはずです。
bossu様、うらめしや….(ヒュ〜ドロドロ)
夜分から失礼致します、ぺんたくやです。
前回の記事にも通ずるところがあり、またコメント寄せさせていただきました。
ところで僕はといえば先日の休み、昼下がりの散歩しておりました。
そこで、近くの公園に大木がそびえ立っているのですが、その下に住んでいるアリ達の巣をずっと観察していました。
まぁ、周りからするとド平日に私服で公園にいるのは不可解だったのかもしれません。(ちょっとすごい体制で観察してたかもしれませんが)
その後、自転車に乗った通りすがりの学生達に白い眼差しを向けらました。
そうやって振り返って嘲笑うのは本人の勝手かもしれませんが。
まぁ、だからその数秒後に直線上の電柱に激突する訳で、、、。
結果的に白眼視した相手に白眼視されることになるわけですが、その気分はどうだったのでしょうか。
確かに馬鹿がアリ達の観察をしてたかもしれませんが、その馬鹿を馬鹿が観察していたことは否めません。
なぜなら馬鹿をしでかした引き金が、馬鹿にあるからです。
それもこちらが馬鹿であれば馬鹿であるほど、あの子達はそれよりも馬鹿を包括してしまうような形で体を成す入れ子構造が成り立ちます。
それは、絶対に追いつけないアキレスと亀のような関係性ですね。
かくなる上は馬鹿にすら馬鹿に思われてしまう、奴らは正真正銘の馬鹿だったというような感じですね。
とまぁ、色々のっけから痰を吐きまくってしまいました。
決してこれが書きたかったわけではないのです。不快な思いをさせたならば申し訳ございません。
これはあまり関係のない話でございます、枕のようなものだと思っていただければ幸いです。
それでは今回もよろしくお願い致します。
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相手と自分についての印象、これもなかなか面白い(?)ものがありますね。
その一部だけを切り取って膨張させ過ぎてしまっている証拠なのか、持たれる印象も千差万別ですね。全く人間というのはついつい身勝手なものだと思ったりします。
例えば嫌われ者の蛾の画像でも、拡大すれば実は綺麗な夜景の一部であったかのように。(引き合いに出してごめんなさい、でも僕は蛾が大好きなんですよ)
相手のその一人歩きな印象の基盤から生まれたギャップというのも、もはや手に負えないといったところが正直ですね。
「意外!もっとこういう人かと思ってた」
「でしょうね、そう思ってたんだもん」
それが結果的に良い印象を与えてたとしても、あまり興味も持てなくて。
アンニュイを醸し出したいわけでもなく、普段もこのくらいの回答が精一杯でしょうか。
明るい、暗い、気難しい….自分でも自分がどういう人間なのか分からないといえばそれまでだけど、こんなにも多様な印象を持たれることになっているのか….と。嘆き混じりの驚きはいっぱい体験しております。
さぁどうぞ皆さん、なんなりとお好きに印象を持ちやがれってんだー!!と躍起にすらなります。
そして本文の「中身は一緒」でもありますが、僕もまさにおっしゃる通りで、私たちもあなたのような人間を支持しておりますというような慈愛の眼差しには嫌気を指すというのが正直なところです。赤子を持った愛妻と一緒に歩けば、それは微笑ましいのですね。(証明書?)
そういえば以前に「おひとりさま」というよく分からない言葉も流行りましたっけ….。
あと、目に見えた弱者にはとことん優しくなってしまうのも人間の性なのでしょうか。
以前車椅子に座った男性に対して、甘ったく接し合っていた男女のペアを見たことがあります。
その時は、お前ら外傷に依存し合うな!と思いました。
外傷が見えないので、もはや自殺は止められませんね。
怪我はぜひ出血させたほうがいいです、吐血して初めて周りが助けてくれることを学びました。
迷うくらいならぜひ怪我には、これ見よがしに包帯を巻いておけばいいのでしょうか?
背中をさすり介抱してもらいたいなら、吐瀉物を吐きだけばいいだけの話ですね?
そのほか、身体に障害を持った方でも自立されておられる方なら、僕らと同じライフスタイルの中で毎日を過ごしておられるものだと思います。
変に気を使うのはどうかと思います、普通でいいのではないでしょうか。
本人に求めるものがあって、叶わなかったなら何かしら自分から伝えればいいのでは?身振り手振りも試してみたのでしょうか。
本人にも自分の状態を逆手にとるような下心がある場合は最悪ですが、怪我人だって誰であろうと日頃から容赦などいらないんじゃないのでしょうか。
決して独善的になるつもりはないですが、とにかく僕自身も暗黙の了解で世間が承諾、公認されて突き動かされている事例を肌で感じるわけであります。
….なんだか書いてる内にヒスっぽくなり、おかげで支離滅裂な文体になってしまいましたことをお許しください。
長文失礼致しました。
コメントどうもありがとうございます。
人からの印象は曖昧なものとなります。
承認・受容に安心を感じたり、称賛されて喜んだりすると、
時にそれを欲し、様々な条件を必要とするようになります。
逆に相手から承認されず不安を感じたり侮蔑され怒りを生じさせたり悲しんだりすることも、同じように条件化を進めていくことになりかねません。
つまり執著を形成し、悩みを増やすことになります。
嬉しいことは嬉しいことで抵抗すること無くそのまま受け取ればよいですが、それすらもたまたまで執著するようなものでもないと明らかに観るという感じで流していくのが理想的です。
営業さんに褒められたからといって、それだけで商品を購入するというわけではないように、全てにおいて「だからといってどうってことはない」というふうに捉えておくと、「必要」なことに集中することができます。
余計な気苦労がない分、精神は穏やかになりますし、物事も捗ります。