読書の秋

読書の秋と言われますが、読書は季節を気にしてはいけません。と、言いつつもやはり涼しくて読みやすい季節ですね。

「読書とは思考の戦場である」、といった旨のことを言った人がいますが、戦ってはいけません。戦いたくなる気持ちはよくわかりますが、戦わずにサラッと流しましょう。

本を読む人は頭がいい、ということがよく言われるそうですが、頭がいいということは「いい」ということには直結しません。それに知識ばかりで苦しんでばかりの人がたまにいます。それは本当に馬鹿げたことです。

愛読書

昔は愛読書というものが数十冊あったのですが、今は完全にその時のお話は不要になりました。あるレベルを超えてしまうと、それまでのたくさんのものが使い物にはならなくなるのはよくあることです。「全く無駄だった」、とは一切思いませんが、もう読み返すこともないのかもしれません。

たくさんの本を読むこともいいかもしれませんが、同じ本を何十回も読み返すのも結構楽しいものです。

かつては理解不能だったり、ある側面からの解釈しかできなかったものが、視点が変わって理解できたり、また、逆に混乱したりするものです。同じ本を読むことはそういった点が非常に楽しかったりします。

固定観念化・信念化

ひとつ気をつけたいのは、同じ本を読むとその本に書いてあることが固定観念、もっと言えば信念化してしまいます。それによって集中力のグラつきをなくすというメリット的なものはありますが、文字通り考え方が凝り固まってしまいます。

非常に根深い信念となれば、その他の考えを無意識的に排除するという傾向が現れます。それは一見いいことのように見える時もありますが、絶対的な安定はありません。なぜなら、それは絶対的で確実的な「法」ではなくて、ある前提のもとのある解釈による思考だからでしょう。

絶対的で確実的な「法」

絶対的で確実的な「法」と言いましたが、もちろん法学部が勉強するような法ではありません。また、どこぞの宗教屋が言うような「あなたたちの知らない真実」とかそういう怪しげなものではありません。絶対的で確実的な「理(ことわり)」を意味します。

「真理」と「真理とは呼べないもの」

これは「目を開けば何かが見える」というようなことです。「神秘体験で開眼した」というような類ではなく、普通のごく一般的な事柄です。体に障害がなければ、目を開けば何かが見えます。

そして開いている間はそれを「消すこと」はできません。そういったものが絶対的で確実的な「法」であって、それ以外は結局「妄想」とか言われても仕方なかったりします。

ただ、自分には確実にそれが起こっていますが、他の人はどうかわかりません。他の人の認識と入れ替えられるのならそれも可能かもしれませんが、そんなことはどうやったらできるのかわかりません。もしできたとしても結局認識しているのは自分でしかないのですから、そんなことはどうでもいいことです。

少しそれましたが、そういったもの以外で信念化してしまったものは、ふと気づけばガタガタ崩れ去る可能性があります。一生崩れない可能性もあるのですが、可能性としては確実にあります。

基本的に考えることは苦しいことです。考えることというより、選択に迷うことは結構な負担だったりします。

そういった時にすべてをすっとばしてくれる信念があれば、時間や神経などの負荷は減り、また精神的な苦しみも多少は軽減されるかのように見えます。

ただ、今度は逆にそれが苦しみをもたらす種であることはあまり語られません。しかし、それはもしかしたら新たな苦しみの類を経験した後にその信念を無効化するというプロセスのパターンかもしれません。そういう経験も別にいいのかもしれませんね。

誰かの考え

ということで、本には誰かの考えがたくさん詰まっています。それを知ること、知っていることは、毒にもなり薬にもなります。健康になったら少量の毒である薬は必要ありません。それと同じことです。

ある視点がわかると、そういった「考え」に影響されなくなります。ただ、目の前に通り過ぎる思考という名の現象でしかなくなります。

わざと騙そうとして変なことを書いているわけではない、ということもわかります。書いている人はたいてい「本気」です。ただそれは、あくまである視点からのもので、法則化してもしかたないようなものばかりです。

思考の戦場

ひとまず法則的なものを作るのが思考の役割というか仕事みたいなものなので、思考の戦場と表現されるような「本」の中はそのような内容になります。

影響されなくなる、といっても何か強固な「信念」が完成するから、というわけではありません。むしろ信念がなくなっていきます。

レベルアップしようと躍起になっているときは、ある意味で信念が宙ぶらりんな状態です。ないわけではないが、完全に固定されるほどのものではない、というような状態です。

成長するのが楽しい、という喜ばしいかのような感覚は覚えますが、ひとまず「安定」が欲しい状態です。安定のために誰かすごそうな人の考えに飛びつきますが、やはり不安定なままです。四角い棒は地面に立てようとせずに倒してしまえば一番安定するものです。それに気づくまではフラフラになるでしょう。

Category:miscellaneous notes 雑記

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