腰をおろして泣いていた

ふと気付けば歩道橋で腰をおろして泣いていたという経験があります。

それは夏の疲れがもたらしたものなのか、ふと気付いた何かしらの虚しさなのかはよくわかりません。

秋風がもたらした愁嘆。

それは何だか体からの本音のような、体が限界にきたからこその悔し涙のような、それよりももっと哲学的な「生きてるって何だろ生きてるって何?」のような雰囲気だったのかもしれません。

その当時、それまで病気で動きが鈍かった分を取り返すように、さまざまな事に奔走していました。それはそれで充実感もあり、また日に日に高まっていくスキルにも移り行く情景にも満足していたはずでした。

でもどこか虚しい。

その虚無感は、ある種哲学的に理解した能動的ニヒリズムですら覆い隠せないという感じでした。

それが何なのかはあまりよくわかりませんが、きっと何かをごまかしているような感じがどこかにあったのでしょう。

それはきっと恩人にお礼を伝えられないという悔しさのようなものだったのでしょう。

腰をおろしてぼんやり浮かんできた想念は、虚弱なころと溌剌な今とのコントラストでした。

それは喜ぶようなことなはずなのに、その中でどこかしら申し訳のないような、そんな感情が押し寄せてきました。

「いろいろな人に迷惑をかけたなぁ」

面倒をみてもらったのは、後から考えても仕方のないことにはなりますが、お礼をしようにも「それくらいで足を運ぶのも相手が気を遣う」という感もあります。

「改めて何か手紙でも」というのも、何を書けばいいのかわからないという感じもしました。

せめていろいろな人とばったり会って、おかげさまで元気ですと手を振るくらいがちょうどいい、という感じです。

それは罪悪感というものとはまた異なるもので、「あなたの厚意がいまこうした結果を生みました」と、せめて確認してもらいたいというものでありながら、わざわざ動くというのも面倒だというようなものです。

「ああ、どうしたものか」

そんな思いが愁嘆となり、僕に腰をおろさせたのでしょう。

妙に街は落ち着いていて、仄白い顔で微笑んでいました。

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「腰をおろして泣いていた」への2件のフィードバック

  1. BOSSUさんの当時の心境とは違うと思いますが、最近、わけもなく、涙がこみ上げてくることがたまにあります。

    本来、心が通い合い、助け合う関係にある人達とのつながりが切れたような感覚、

    今まで依存していたものに、依存できない、するべきではないということがわかって、心は何ものにも依存せず、強く生きていきたいと思う反面、時折、湧き上がる、何かに包まれて、ほっとしたいという感覚、

    もともと依存心の強い自分が、何か、強がってばかりいて、ああ、もう、全てから解放されたいなあ、そんな虚しい感じに涙が同調してくることがある感じです。

  2. コメントどうもありがとうございます。
    大人になると子どもの頃に感じたような安心感はどこかにいって、自分よりも大きいものの背中に乗って安心して眠るような感覚はなかなか訪れません。
    人にもよりますが、体のサイズ的にも無理がありますし、責任等々の社会関係性から考えれば、両手を離して安らぐということはなかなかできません。
    「何か大きな存在を拝むことで擬似的な構造をつくる」というのが世の宗教と呼ばれるものですが、やはりそこには執著や依存が生じるため、結局根本解決にはなりません。

    依存なき状態が良いとしても、思考の上で「これは依存になるのではないか?」という判断が起こったりして「それは依存であり、何があっても依存してはいけない」という形になったりします。そうなると、「これは依存である、依存はしてはいけない」ということへの執著となり、概念への依存となり得ます。
    そのようなときこそきっと正念場です。
    「依存なき状態という概念」への依存をなくすというような、論理を超えるような感覚になってしまいますが、「正しいおもい」に心を定めるという感じです。
    虚しさも悲しさも、それらは否が応でも起こり流れていきます。ぼーっと川の流れを見るように、自然のままに任せるが如くそれに抵抗せずにそのありのままの感情を大切にしてください。

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