生兵法とレトリック

自転車トラブルが起こった時のケース(頻発した自転車トラブル)等々、「知能が発達していないゆえに生兵法で挑んでくる」といったケースが身の回りでも頻繁に起こっているようです。

「生兵法は大怪我のもと」という言葉があるにも関わらず、よくもまあそんなに強気に出れるなぁと思ったりもしますが、むしろ「凄さがわかるのも能力である」ということから考えれば、能力がないからこそ、その意味すらわからないという感じになるのでしょう。

別に必要なものではありませんが、ある程度論理学やレトリック(修辞学)を経験してみると、そういった出来事は減っていくのかなぁと思ったりもします。

僕は中学生の時からそのような分野を知らずして勝手にそのような弁論を繰り返していたりしたので、古代ギリシャの弁論術、修辞学にしても「後から確認した」という程度だったりします。

普段はレトリックを意識したりはせず、むしろ曖昧性を残して書いたりしています。そうした方が面白いですし、曖昧さを残したほうが見え方に幅が生まれ、無意識の奥に伝わるという要素があるのであえて厳密性は意識していません。

また、「弁論で勝つこと」は、時に感情の世界では通用しないという側面があるからです。

といっても既に無意識レベルになっているので、ある程度は自然とそれが反映されているということになるのでしょう。

幼稚な定石

最近実際に起こる「謎のご意見」とか「弁論のふっかけ」を見聞きすると、何だかパターンがあります。

定石とも言うべきか、誰かが誰かをやり込めているような格好を見て、「そうかそのパターンならいける」という学習の結果なのでしょう。

しかしそれは非常に幼稚で、論駁の対象にすらならないものばかりだったりします。一端に嗾けているつもりなのでしょうが、文字通り「話」にすらなっていません。

最近ではどうなのか知りませんが、一時期、メディアで「笑いどころをわざわざ説明する」というなんとも野暮ったい表現がなされていたことがありました。僕がテレビを見なくなる直前くらいの時期です。

「〇〇なのに△△」

という構造をわざわざ一行くらいで説明するという感じです。

「こういう意味で面白いんですよ」ということを教育しているつもりなのかもしれませんが、そうした途端に芸術性が消えるというか侘び寂びや奥ゆかしさが消えます。

そしてその延長なのかどうなのかははっきりしませんが、定義もなしに「どうせ〇〇だろ」とか「もし〇〇だったら△△になるくせに」的な表現が多くなってきたような気がします。

そうした物言いが定石として「これならいけるぞ」という感じになってきたのでしょうか、至るところでそうしたパターン化されたものがありふれるようになりました。

立証責任の転嫁

そうした定石のような幼稚なご意見は詭弁の要素や修辞学における卑怯さなどがあるので、それを突っ込むとすぐに裏返ります。

例えば、「どうせ〇〇だろ」は立証責任の転嫁という要素があります。

「はい」といえば、「そうか悪者と認めるのだな」ということになりますし、「いいえ」と答えれば「〇〇ではない」ということについて「〇〇」の定義やその定義を構成する条件に自分が当てはまらないことを証明していく作業が必要になります。

そうした定義を曖昧にしたまま、クレーム(主張)を作っている形になり、定義付けや論証という手間を相手に転嫁しているということにもなります。

そういえば何だか世間では最近セクハラやパワハラの定義のうち「ハラスメント」という部分を都合よく無視しているような気がします。

そしてさらにそのクレームが社会で承認されたときに起こる結果、つまり効果を考えた場合、例えば法的なフィールドであれば、賠償責任などになりますし、日常であれば、周りの人たちからのふんわりした評価くらいなものです。

そうした点において、日常的な結果に着目すると大したことはありませんし、法的なものであれば、立証の責任が求められるのである程度の厳密性が必要になります。また、ハラスメントの問題であれば、主観的に「嫌だと思った」というだけでは確定せず、蓋然性の上で因果関係や実際の被害度合いなどが勘案されるという感じになるでしょう。

定義が曖昧でよく、立証の責任も特に求められないという意味ではまさに「譫言」という感じがします。

その上に定義を含めた立証の責任を丸投げしているのだから、まともに答えて反駁などせずとも、「定義付けと論証」を求めれば良いということになります。

日常で言えば「その言葉の意味」と「相手の主張の理由、結論に至るまでの証明」と「求めたい結果」なんかを質問すればいいという感じです。

そういうわけになるので答えではない「質問返し」が来た時に困惑しなければならなくなります。

なので、「はい」や「いいえ」ではない、返しが来ることを想定できる人は、不利になる可能性が増すことを想定できるので、そうした論理は展開したりしません。

そういうわけで幼稚という感じです。

定義と要件と効果を把握しない生兵法

ここでちょっと法律的な感じになりますが、先日弟が経験した「自転車にまつわるトラブル」で出てきた「自転車のベルを鳴らすこと=違反」という主張をした若い女性について触れてみましょう。

その人は、むやみに自転車のベルを鳴らすことが違反であるということの定義、違反と扱われるための条件、つまり要件と、その結果もたらされる効果という構造を全くわからないまま論理を展開していました。そして「自転車のベルを鳴らすこと=違反」という感じで自己都合で主張をして、結局「そういうことじゃない」と警察官に一蹴されて終わったという感じでした。

ここからわかるところは、「クレーム」を作る場合には、その定義を把握して、要件と効果を考えてある程度「要件への該当」を立証できるという自信の上で行わねば窮地に立つということです。

そのケースでは、特に大事にはなりませんでしたが、こうしたクレームの作り方はまさに「生兵法」という感じです。

ちなみに世間では、クレーマーとは、「ややこしい苦情屋」とか「ただ単に気分だけで文句を言っている人」という感じで捉えられていますが、僕としてはしっかりと定義やデータやワラントを用意して「主張」を組み立てられる人が本当のクレーマーであり、侮蔑語でもなんでも無いと思っています。

ただ単に気分でモノを言う人は、その結果の享受において何の権限も持たない賛同者と批判者を獲得する程度です。しかし、しっかりとしたクレーマーは、裁判で勝ったり、会議で主張を採用されたりするわけなので、結果ベースで見るとそのあり方は全く異なります。

多問の虚偽

レトリックに関するテーマなので、ついでに多問の虚偽(複問の虚偽)についてでも少し触れておきましょう。

有名なものは次のような文です。

「君はもう奥さんを殴っていないのかい?」

これはまあ「はい」といえば、かつて殴っていたことになりますし、「いいえ」といえば現役で殴っていることになります。

本当にかつて奥さんを殴っていたという経緯があるのならば話は異なってきますが、そうでないのならこの質問は回答が「はい」か「いいえ」に限定されているとすれば質問自体が「どちらの答えでも答える側が不利になる」という構造を持っています。

だからまともに答える必要はありません。

しかしながら世の中には、「質問に対して答えないこと」を理由に「相手を黙らせた」などと喜ぶ人達もいます。しかし、構造的に黙ったからと言って負けたというわけではありません。質問者が詭弁を使っているだけであり単に卑怯なだけです。

そういうわけなので、黙った方が負けというような感じで、問いに対して回答しない様を見て、質問者の勝ちという判定をする人たちに関しては、詭弁的構造を見抜けていないだけということになります。

「問い自体が詭弁的な構造を持っている」という指摘を行うことで返すこともできますが、そうした返しに対して「質問に質問で返すな」とか「論点をずらすな」などと意味不明の返しをしてくる場合もあります。質問者、判定者とも、そんな意味不明の返しをしてくる程度の人達の評価など何の値打ちもありません。なので、根本的にはそうした人たちからの評価自体を求めないというのが一番良いという感じになります。

幼稚な質問や主張自体を控えるようになる

という感じで、別に修辞学的なことを知らなくても、質問の構造を把握できる人であれば、詭弁に対して切り返したりすることはできますし、ひっくり返されると質問した方が困惑することになるので、そうした構造を把握できる人は、幼稚な質問や主張自体を控えるようになります。

そんな中、生兵法で幼稚な質問や主張をするということは、レベルの低さを能動的に露見しているようなものです。

そうしたことに気づくきっかけは、概ね「ひっくり返されて困惑する」という経験だと思います。

そうした経験を経ていないのだから止まらないという様は、まさに思春期の中学生のようです。

そういえば「ひっくり返されて困惑する」といったものではありませんでしたが、中学生の時の担任の先生の「説得」を思い出したりします。

数時間に渡って弁論大会のように「不可解な校則」に関するお話をしていたのですが、先生は「自分の力ではどうすることもできないし、『ここは教育の場であり、大人になってからの不可解なルールへの訓練』として捉えてくれと言うことしかできない」と返されました。

それに対して反駁することもできましたが、その先生のことは好きだったので、「苦しめるのも嫌だなぁ」という感じで、納得はしていないものの、ひとまずある程度受け入れるという感じになりました。

そのような感じで日常では、言語のみによる論理、弁論術というものだけがモノを言うというわけではなく、様々な要因が絡み合っているので、ある程度曖昧でもいいという感じですが、大切な人を守ったりする場面において、生兵法で怪我をしたり、詭弁に言いくるめられて不当な要求を受け入れたりするわけにはいかないので、そうした時には程度に応じて冷徹になることにしています。


戯言、譫言は、それを肯定すると自分が不利になるという感情くらいが発端で、かつ、本質的な「クレーム(意見・主張)」をどう支えるのかという部分が曖昧になっています。論理的整合性もない、データもワラントもなく蓋然性も低いという感じです。

形而上学的領域では概ね通用せず、あくまで社会的な問題、社会的関係性においてジャッジが必要なシーンにおいてどのように考えて意見を支えておけばよいかという程度になりますが、社会的な問題に対処する時、基本的にはトゥールミンモデルと三角ロジックくらいで十分に主張をまとめることができます。日常生活レベルであれば、問題の発生を抑えたり、問題を早期に解決することができる上に気持ちに余裕が出るのではないかと思います。

問題が生じた時に意識に余裕を生み出す論証

Category:miscellaneous notes 雑記

「生兵法とレトリック」への2件のフィードバック

  1. bossuさん。いままでありがとうございました。これからもよろしくおねがいします。(挨拶)

    1. フィルタ機能で弾かれていたようですので復元させていただきました。なるべく固定的なお名前の入力をお願いいたします。
      これからもよろしくお願いいたします。

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