四苦八苦 あらゆる苦しみ

四苦八苦シリーズが全て完了したので、四苦八苦をまとめておきます。四苦八苦(しくはっく)とは、四苦である「生老病死」に加え、怨憎会苦、愛別離苦、求不得苦、五蘊盛苦(五盛陰苦/五取蘊苦)といった8つの苦しみを意味しています。

四苦八苦は、もちろん仏教用語であり、生きる苦しみ、老いる苦しみ、病の苦しみ、死ぬ苦しみといった「生老病死」と合わせて、嫌いな人と会わねばならぬ「怨憎会苦」、愛するものと別れる苦しみである「愛別離苦」、求めても得られない苦しみである「求不得苦」、5つの構成要素・素因である色受想行識に対する執着から起こる「五蘊盛苦(五盛陰苦/五取蘊苦)」という苦しみです。

  1. 生苦
  2. 老苦
  3. 病苦
  4. 死苦
  5. 怨憎会苦
  6. 愛別離苦
  7. 求不得苦
  8. 五蘊盛苦(五盛陰苦/五取蘊苦)

こちらにも一応経典の中で四苦八苦が登場する有名なものを再掲しておきます。

「生も苦しみである。老も苦しみである。病も苦しみである。死も苦しみである。愛さない者と会うことも苦しみである。愛する者と別離することも苦しみである。すべて欲するものを得ないことも苦しみである。要約していうならば、五種の執著の素因(五取蘊/ごしゅうん)は苦しみである」(律蔵/ヴィナヤ・ピタカ)

四苦八苦シリーズは、一切行苦(一切皆苦)を補完するものとして書いてみたという感じですが、一切行苦よりもかなりわかりやすいものばかりだと思います。もちろんこうした中で触れている「苦しみ」は、「思い通りにならない」という不満・不完全を意味する「苦(ドゥッカ)」です。

一般的な用法の「思い通りにならず四苦八苦する」というのも確かにそれっぽいですが、ここではニュアンスではなく一応原意を元にした四苦八苦について若干哲学的に触れています。四字熟語として日常で使われる際の四苦八苦は、非常な苦しみやうまくいかない様を表したりしていますが、ここでは仏教の概念として哲学的に捉えた上で示しています。

それでは、四苦八苦のそれぞれについて抜粋付きでリスト化しておきます。

「生苦」生きる苦しみ

四苦八苦のうちの四苦「生老病死」の最初の苦しみがこの生苦(しょうく)です。生苦とは、生きる苦しみのことを意味しますが、基本的には「生存本能にただやらされているだけ」というのが「生苦」・「生きる苦しみ」です。

最終的には四苦八苦の全てにおいて「生きていることが苦しみである」という感じで落ち着いていきますが、生存本能としての苦しみといった感じで生きる苦しみについて触れています。

生苦とは「生きるためにやらされている事による苦しみ」という感じです。もちろん生まれてきたことそのものが苦しみだというような側面もあります。

生きること自体の目的が何なのかはわからない上に、仮に目的があろうがなぜそんなものに強制的に付き合わさせられているのか、というような面も見逃すことはできません。

「生苦」生きる苦しみ

「老苦」老いる苦しみ

四苦「生老病死」の二番目の苦しみが老苦(ろうく)です。老苦とは老いる苦しみを意味しますが、もちろんここでもこの「苦」は思い通りにはならない「精神的な苦しみ」を意味します老苦の苦も、老いに対する思い通りにはならないという精神的な苦しみが中心となります。

通常老いる事の苦しみと言うと、体のあちこちが痛むとか、足取りが重く昔のように活動的になれないとか、感動があまりないとか、そうしたことが想起されそうなところです。

様々な活力が減っていくという点や、「仲の良かった人たちが死んでいく」といったことを筆頭に周りの環境が変化していくということももちろん一種の苦しみになるのかもしれませんが、老苦の本質はおそらくそうした点だけにとどまりません。

ここでは、高齢者の方が話題にするような「もう自分は若くない」というような点ではなく、もう少し哲学的なテーマとして老苦の苦を取り扱っています。

「老苦」老いる苦しみ

「病苦」病の苦しみ

四苦「生老病死」の三番目の苦しみが病苦(びょうく)、病の苦しみです。語るまでもなく病については、ダイレクトに苦しく、痛かったりしんどかったりするので誰しもが実感を持つものだと思います。

生まれた時から病に冒される可能性は常にあり、それから完全に逃れることはできません。

「完全に逃れること」が不可能という意味で、四苦八苦として語られるという面は見逃すことができません。

それがどのような病気であれ、何かしらしんどかったり痛かったりと体からストレートに苦しさがやってくるという一方、ある程度起こることを防ぐ事はできても完全には防ぐことができないという感じなので「思い通りにならない」ということになります。

「病苦」病の苦しみ

「死苦」死ぬ苦しみ

四苦八苦の四番目、四苦である「生老病死」の最後の苦しみは死苦(しく)、死の苦しみです。哲学的に考えると「生命としての死ぬ苦しみ」、「死の苦しみ」といったものは矛盾になります。なぜなら死ぬということは生きていないということなので、その経験を経験し得ないからです。

一応「思い通りにならない」と言った感じで、死から逃れる事はできないという面もあります。どうあがいても死を避けることはできないという感じです。ということを前提として、「死苦」について取り扱っています。

死を経験し得ぬということで「『死苦』としての死ぬ苦しみというのは無いのではないか?」と思ってしまいますが、死を想像することで起こる恐怖、未来への想像としての恐怖は「今」形成され得るものなので、そうした恐怖心が一種の苦しみとして考えられるのではないかと思います。おそらく死を想起する中、最も中心となる恐ろしさは「すべてが消えていく虚しさ」ではないでしょうか?

「死苦」死ぬ苦しみ

「怨憎会苦」嫌いなものと会わねばならぬ苦しみ

四苦八苦の五番目は怨憎会苦(おんぞうえく)です。読んで字の如く怨み憎むものと会う苦しみです。人を含め嫌なもの嫌いなものと会う苦しみであり、対象は人だけではなく嫌なもの全てです。字面を見ても「怨む、憎む、会う、苦しみ」という感じなのでわかりやすいと思います。

生きているということは、だいたい何かに触れざるを得ません。この五感も意識も基本的には常に働いているので、何かしらを感じてしまうので、感じたからには何かの反応をしてしまうという感じになっています。

怨憎会苦とは、そうした「触れる対象」について、嫌なものと会う時に起こる苦しみ、嫌なものと会うということを想像する苦しみ、そして嫌なものを思い出す時に起こる苦しみです。

それが未来への想像だとしても、過去の記憶を思い出すということであっても、今現在そうした意識状態に「触れている」ということになりますので「今起こる苦しみ」です。

「怨憎会苦」嫌いなものと会わねばならぬ苦しみ

「愛別離苦」愛するものと別れる苦しみ

四苦八苦の六番目は愛別離苦(あいべつりく)です。愛別離苦は、愛するものと別離する苦しみとして、いくら好きで愛し尽くしたとしても、いずれ必ず来る別れからは逃れることができないという苦しみです。

愛別離苦は生き物との別れだけはなく、好きなもの、愛しているものとの別れの苦しみ全てになるので、対象に好意があるのならいかなるものでも対象になります。僕の場合は動物とのふれあいの中から感じたことが多いですが、人の死や人との決別、物のとの別れ全てが愛別離苦の対象となります。

愛別離苦の「苦」も、もちろん一切行苦同様「思い通りにならない」という苦しみであり、愛するものと別離しなければならない苦しみであり、別れるに当たり起こる分離の感覚の苦しさであり、同時にどうあがいてもその構造からは逃れることのできないという苦しみという意味での苦しみでもあります。

「愛別離苦」愛するものと別れる苦しみ

「求不得苦」求めても得られない苦しみ

四苦八苦の七番目は求不得苦(ぐふとっく/ぐふとくく)です。読んで字の如く求めても得られない苦しみであり、欲が満たされないことに煩い悩むことです。

求不得苦は、根本には不足としての「欲」があり、その欲が満たされないことで起こる苦しみ、思い通りにならないという苦しみという感じになります。主に生理的な欲求の範囲を超え、意識的に「手に入れたい」と思う欲の範囲になります。そしてそれら欲についてはもちろん動機の発生があります。

ではそうした動機発生の要因は何なのかということになりますが、もちろんそれは今まで培った体感記憶やそれを思考上で取り扱うことといった形で形成されています。

妄執(もうしゅう)・渇愛(かつあい)と呼ばれる、Taṇhā(タンハー)は、「のどが渇いた時の感じ」のようにそれを求めることを意味します。この妄執・渇愛は、根底は生存本能でありながらも、意識の奥底に体感の記憶として保存されている多種多様な成功体験や失敗体験が要因となって発生しています。

「求不得苦」求めても得られない苦しみ

五蘊盛苦(五盛陰苦/五取蘊苦)五種の執著の素因による苦しみ

四苦八苦のうちの八番目、最後の苦しみは五蘊盛苦(五盛陰苦/五取蘊苦)です。この五蘊盛苦(ごうんじょうく)、五盛陰苦(ごじょうおんく)、五取蘊苦(ごしゅうんく)とは、「五種の執著の素因は苦しみをもたらす」、「五種の素因への執著が苦しみを生じさせる」という意味であり、四苦八苦全ての苦しみはこの五種類の素因への執著から成り立っているということを指します。

五蘊(ごうん)とは、色受想行識であり、世界を作る素因・構成要素として、世界は色蘊、受蘊、想蘊、行蘊、識蘊の五種で構成されています。六根と呼ばれる「眼・耳・鼻・舌・身・意(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚・意識)」の全てに五蘊が対応しており、意識を合わせると30種の蘊(素因)があるということになります。

素因として考えられる色受想行識の五蘊に対して、それが起こりそして執著が起こることが苦しみの原因であるというのが五蘊盛苦(五盛陰苦/五取蘊苦)です。

五蘊盛苦(五盛陰苦/五取蘊苦)五種の執著の素因は苦しみをもたらす

生老病死は生まれた瞬間から起こる苦しみ

四苦八苦は、その字面の通り最初に四苦として「生老病死(しょうろうびょうし)」が示されています。

これは生命として生まれたからこそ起こる苦しみであり、生きているからこそ起こる苦しみであり、生命が続く限り逃れられぬ苦しみです。

生きているからこそ、生命維持のために何かをやらされ続けるという事が起こりますし、変化するからこそ生きていると感じるからこそ、必然的に老化は進んでいきます。可能性として病に冒される可能性もありますし、必ず死を迎えることからは逃れられませんし、生命として死を恐れるという事も起こりえます。

哲学的に考えれば、今この瞬間しか捉えることができないはずですが、生きているということを実感するためには連続性を感じるような「変化」が必要になります。変化がなければ動きもなく、時間という概念も生まれてきません。

そして全ては「諸行無常」として、物であっても意識であっても感情であっても、一切の形成されたものは必ず変化するという理があります。

全ては「この瞬間に形成されたもの」しか情報状態としてはありませんが、その形成されたものが常に変化するからこそ、時間という感覚も起こります。そして、同時に生命として生きているということになります。

「生きている」ということには必ず四苦である「生老病死」がセットでくっついてくるということになります。

しかし、それはそれで客観視してみればただの現象や可能性です。そのような理、法則、現象、可能性の中、「苦しさ・苦しみ」というが出てくるのはまた別問題であるということを見切ると「苦しみから脱する」ということの方向性が朧気ながら見えてくるという感じになります。

四門出遊

四苦八苦の四苦「生老病死」の概念が登場するもので有名なものはジャータカ序に登場する逸話「四門出遊」ですが、ここではそうした逸話は置いておいて、パーリ語経典に出てくる四門出遊っぽいものをご紹介しておきます。仏教用語のため念の為という感じですので言葉にはとらわれないようにしてください。

「わたくしもまた、かつて正覚を得ないボーディサッタであったとき、みずからは生まれるものでありながら、生まれることがらを求め、みずから老いるものでありながら、老いることを求め、みずから病むものでありながら、病むことがらを求め、みずからは死ぬものでありながら、死ぬことがらを求め、みずからは憂えるものでありながら、憂えることがらを求め、みずからは汚れたものでありながら、汚れたことがらを求めていた。

そのときわたくしはこのように思った。

―なにがゆえにわたくしは生まれるものでありながら、生まれることがらを求め、みずから老いるもの、病むもの、死ぬもの、憂うるもの、汚れたものでありながら、老いることがら、病むことがら、死ぬことがら、憂うることがら、汚れたことがらを求めるのであるか?

さあ、わたくしはみずから生まれるものではあるけれども、生まれることがらのうちに患いのあるのを知り、不生・無上なる安穏であるニルバーナを求めよう。

わたくしはみずから老い、病み、死に、憂い、汚れたものではあるけれども、それらのことがらのうちに患いのあるのを知り、不老・不病・不死・不憂・不汚である無上の安穏・ニルバーナを求めよう」(マッジマ・ニカーヤ/中部 中村 元訳)

生老病死が苦しみとなるのは生命そのものへの執著から

一切行苦でも触れていましたが、四苦八苦の「苦」は、単なる「苦しみ」ではなく、パーリ語の「dukkha(ドゥッカ)」であり、「ままならない」とか「思い通りにならない」というような意味を持っています。苦痛や精神的苦しみ、体の痛みや不快感という日常の苦しみも含まれていますが、そこまで重要視するようなものでなくても苦の対象になります。

四苦八苦の最初の四苦である生老病死は、命あるものが生まれた瞬間から発生する苦の対象ではありますが、それが苦しみとして機能するためには、生命そのものへの執著が必要になります。

もちろん発端は生命としての生存本能ですが、生命を維持したい、老いずに若いままでいたい、病にならず健康でいたい、死にたくないというような形で生命に対する「こうあって欲しい」という思いが苦しみを作り出しています。

頭で考える範囲を超え、問答無用で即時的に体が痛みを与えてくる、苦痛をもたらしてくるという感じにはなります。しかし、浅い話になりますが、例えば、今の自分の状態は状態で仕方ないということにして「せめてこうあって欲しいのにこれが叶わない」ということを手放し「まあこんなもんでいいわ」と心底思えれば、精神としての無駄な苦しみは減ります。

例えば、老いる苦しみである老苦であれば「思ったところで若返るわけでもなし、経験が消去されるわけでもなし、成長が逆行するわけでもなし、それは変えられないのだからまあいいか」と思えれば、年齢に対する「精神としての苦しみの感情」などが無駄に起こることはなくなります。

生老病死のうち、わかりやすいものだけでも少し検討してみて、執着するようなものなのかどうかを見切っていくというのも面白いのではないでしょうか。

怨憎会苦、愛別離苦、求不得苦は執著から起こる精神的苦しみ

四苦八苦のうち、怨憎会苦、愛別離苦、求不得苦は、執著から起こる精神的苦しみになります。また生老病死の死苦として死を恐れるということや、病苦における「病気になるかもしれない」という恐怖心などももちろん精神的な苦しみです。

よくよく考えると、生苦は「お腹が空いてしまうこと」というような生命維持のための苦しみであり、それを解決できない場合に起こる苦しみとして「求不得苦」が出てくるといった場合がよくあります。

「死にたくない」という煩悩には愛別離苦の要素がありますし、「病気になりたくないのに病気になって苦しい」というものには、健康な状態への「求不得苦」や病気への恨みという「怨憎会苦」があったりします。だから四苦八苦の全ては、切り離して考えるようなことではありません。

ただ、四苦の生老病死は、生まれた瞬間から生きている今に至るまで、語るまでもなく問答無用で即時的に起こる苦しみですが、怨憎会苦、愛別離苦、求不得苦は、「記憶」が要因となって起こる「執著」がもたらす精神的な苦しみという属性が強いという感じになります。

まず、望み、願望、期待など、「あってほしい状態」という基準が記憶から形成されています。そしてそれが執著であり、その状態を望み、その状態にあるものを手放したくないという思いを作り出します。

そして人を筆頭に「基準から外れた属性のもの」に接すると怨憎会苦が起こり、会った時の記憶が過去を思い出して苦しみを生み出したり、「またそういう人に出会ったら嫌だなぁ」という未来への想像という苦しみを生み出します。

また同時に「基準に合致したもの」への好意という執著が発端となり「それを手放したくない」という思いや「それにまた会いたい」という思いを形成します。そして愛別離苦や求不得苦が生じたりします。

それら精神としての苦しみは、今現在に起こることですが、現象自体が今現在起こっている場合、現象を思い返す場合、現象を想像する場合など、現在・過去・未来の方向でそれら苦しみは起こったりします。しかしいかに現在過去未来であっても、それは「今この瞬間に形成されているもの」です。

今この瞬間、この意識の内側で形成された情報状態だという感じになります。

対象に触れること苦しみが起こる

生老病死、怨憎会苦、愛別離苦、求不得苦といった四苦八苦のうち7つは、すべて「対象に触れること」がきっかけで起こる苦しみです。そういうわけで、「要約していうならば、五種の執著の素因(五取蘊/ごしゅうん)は苦しみである」とあるように、五蘊盛苦は、全ての苦しみに通じる苦しみの原因を示しています。

「生きていること」を実感するためには、何かとの接触が必要です。同語反復的になりますが、何かに触れ、何かを心が受け取ることがないと認識するということや認知するということはありません。何かに触れて何かを感じ、「諸行無常ゆえに変化する」ということを感じることがなければ、生きているという感覚はありません。

そういうわけで、この「心」のこととして考えれば、生老病死ですら何かと接触することで起こる苦しみという感じになりますし、怨憎会苦、愛別離苦、求不得苦に関しては、当然にそれに該当する何かとの接触によって起こる苦しみということになります。これは実際の現象との接触のみならず、「この意識の中で起こった状態との接触」ということがなければ起こりえないという属性を持っています。

苦しみの種類

苦しみの種類としては、四苦八苦として大きく8つに大別することができますが、細かな分類をすると五蘊と六根と現在・過去・未来と、その組み合わせという感じで膨大な数の苦しみのパターンがあります。

世の中では108つの煩悩などと言いながら、現在過去未来のパターンを合わせて108種の苦しみだと考えられたりしますが、本当に厳密に考えると、数千数万の組み合わせが考えられるはずです。なお、現在・過去・未来というのは、それが実在するということではなく、「今現在苦しい」、「過去を思い出して今苦しい」、「未来を想像して今苦しい」ということになりますので、全て現在形成されている状態としての苦しみです。

苦しみは大別したり仔細な分類をしたりすることができますが、現に感じる苦しみは、単純な一つの苦しみというだけでなく、様々なものの組み合わせで起こったりします。

それが精神的な苦しみであっても、一つの精神的な苦しみといった形ではなく、その中には様々な苦しみのパターンがあり、それが同時に起こったります。

例えば愛別離苦であれば、死別することで起こる「分離の苦しみ」というものもありながら、介護生活から逃れられることで気が楽になるという事に対する「愛する人の死を喜んでしまう己への憎悪」という苦しみもあります。

また、例えば略奪愛のようなものがあった場合、復縁を望んだりすることで、好きな人と分離してしまったことによる「愛別離苦」、恋敵に対する怨憎会苦、復縁することがうまく叶わないという求不得苦が生じるという形になります。現象としては一つの現象ですが、視点によって各々の苦しみとして概念を当てはめることができるという感じになります。

ただ、そうした苦しみの種類、パターンを全て捉えて個別に対応していくということはあまり意味がありません。なぜなら「苦しみ」というものを具体的対処で解決していこうとすること自体が自我による錯覚であり、苦しみ自体も一種の錯覚であり、錯覚と同化しているからこそ心がかき乱されているというのが本当の姿だからです。

すべては対象に触れることが原因となり、対象に触れたことから起こる執著が原因となっているという感じになります。

苦しみとは何なのか?

このような感じで、この世の苦しみを大別する形の四苦八苦の概念についてそれぞれ触れてみましたが、大前提として「生きることは苦しみである」ということ、そして苦しみとは日常の苦しみを超えて「ドゥッカ」であるということを捉えておく必要があります。

一切行苦でも触れていたように、「四苦八苦」の「苦」は、日本語でよく使われているような単なる「苦しみ」ではなく、パーリ語の「dukkha(ドゥッカ)」が漢字に訳されたものであるため、「苦しみ」というよりも「ままならない」とか「思い通りにならない」とか「うまくいかない」というような意味を持っています。

そういうわけなので、日常の苦しみも含まれていながら、そこまで苦痛でないような印象があるようなものでも苦の対象になっています。

「遺憾だなぁ」とか「うーん…まあいいけど…」「まあ言ってることはわかるけど…」みたいな感じで、微妙に納得がいっていないというような時の感覚・感情も苦の対象となるという感じです。

このあたりは、一切行苦で触れていたので割愛しますが、いずれにしても「苦しみとは何であり、苦しみから脱するにはどうすればいいのか?」というところが肝心であって、苦しさの分類と個別的対処法などはあまり意味をなさないという感じになります。

思考的に四苦八苦を克服するとか解決するという感じではなく、個別の苦についてそれぞれ克服とか対処をしていくという感じでもなく、それらよりももっと抽象的な感じで一気に脱することしかできません。抽象的に脱するのだからそれよりも具体的な全ては結果的に全て解決してしまうということになります。

しかしながら、愛しいものとの出会いや嬉しい体験すらも苦しさのタネになるという点は、苦しさの本質を捉えるのによい思索のきっかけを与えると思います。

日常、「生きることや生命そのものへの賛美」という感覚は無条件に素晴らしいという感想が多いと思いますが、生きること自体を否定するわけでも蔑ろにするわけでもなく、「生きること、生きている事自体が苦しみの原因となる」という感じで、本質に目を背けずに捉えてみるという感じで、四苦八苦を捉えてみても良いでしょう。

もちろんそれは社会的な善悪云々の領域ではありません。この世界を捉えているのはこの心であり、この心が苦しみから脱することが最も大切です。他人に認められようが評価されようが、そうしたものの結果を享受するのはこの心であり、外に向かって働きかけるのは結局自作自演であり、全てを最終的に受け取るはこの心でしかないのだから、世間での議論などすっ飛ばしてこの心を安穏に導かねばなりません。

主義の範疇であるペシミズムやニヒリズムといった領域を超え、正解か不正解か、社会的な評価はどうかといった領域も飛び越えて、この心が安らかであるようにという感じで、あらゆる苦しみの根幹にある苦しみの本質を見抜いていきましょう。

「生きることは苦である」というようなフレーズだけを抽出し、一切行苦ではなく「一切皆苦」とした上でウルトラC解釈して、「死のう」とか「苦しみから解き放つために死なせてあげる」というカルト宗教の発想が出てくることもあるかもしれませんが、そうした発想はアイツこと自我の暴走であって、それではまだまだ「生きることは苦である」ということを何も捉えられていない何よりもの証拠になります。その理由をこの四苦八苦シリーズの各所に散りばめておきました。

世の中では様々な苦しさ、苦しみについて具体的な解決策を求めるのがせいぜいです。

体の痛みについては薬を用いるなど、そうした具体的な対処法を用いるというのもいいですが、薬を飲みながら暴飲暴食を繰り返すように、根本問題を棚上げにしたまま次から次に出てくる苦しみに毎度毎度対応しているという有様はバカげているとしか言いようがありません。

一つの大きな前提が変化すれば、その下に属する細かな問題は全て個別に対処することなく解決したりします。

それと同じように、様々な苦しみの要因、その根幹を見破って、揺るぎない安穏の中に飛び込んでください。

一切行苦

Category:philosophy 哲学

「四苦八苦 あらゆる苦しみ」への2件のフィードバック

  1. 自尊心や執着などを無くすことによってな余計な苦しみから脱することが出来るということでしたが、生苦等の苦しみは依然として残ることになります。それだったらやはり死んでしまった方がより安らぐのでは無いのでしょうか?
    それとも死後の世界は想定出来ないって感じですかね?

  2. 「生苦等の苦しみは依然として残ることになります」
    という部分については、この体の都合上の為さねばならない条件として、いかにしても依然として残り、達成しないと苦痛もやってくるので、おっしゃる通り構造上は残ります。
    「思うままにならない」という意味でのドゥッカとしても同様です。

    「それだったらやはり死んでしまった方がより安らぐのでは無いのでしょうか?」
    という部分については、死後の世界の想定は、想像の域を出ないものの、おそらく死によって認識が無くなるので、感覚や感情としても「安らぎ」を「感じる」ことはなく、また、煩いのない状態を「心が受け取る」こともないと考えます。

    死後がどうであるかは不可知ですが、もし心になにかしらを受け取る機能が残っていた場合、最後の状態を永続的に心が受け取ることになったり、最後の状態が起因となって別の姿形として形成される可能性も想定することができます。
    仮にそうであれば、最後の状態として「安らぎを欲する状態で、苦しみから生じた衝動によって『安らぎを得るため』にという目的を持っていた」という状態であった場合、やはりそれに相応した状態が形成されてしまうと思います。
    ただ、そうなるかどうかは語り得ず示しえない領域ですので、何とも言えません。

    生苦や病苦などに関しては、「この体」の都合なので、依然として残ります。もし対処しても対処しきれず苦しみしかないのであれば死んだほうがマシかもしれません。
    本能としての「苦しみからの脱却」としての生命としての恒常性を考えれば、自ずとそうしたことになることがあります。体が体に向けてやっているという感じです。そして、それら苦しみが限界領域に達すると自らの意識としては意図せずとも論理を飛び越えて死を迎えます。

    しかし、生苦等の生起に対処できて、ある程度充足させることができている状況にあっては、あらゆる苦しみ、「不満足としてのドゥッカ」は、そうした根本的な生命としての苦しみではなく、精神としての苦しみであると考えることができます。
    体験し得ぬ死後の状態がどのようなものかはわからないので、生きている今のことしか語り得ぬという感じです。

    生きている今、語り得るのは、「死のう」とか「死んだほうがマシではないか」と「考える」ことや考えが起こる動機自体は、何かしらによって形成されたものであり、そうした動機の発生や条件化や思考そのものが意識領域として、精神領域としての苦、不満・不満足としてのドゥッカであると示すのみです。

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