やさしくて何がいけないのでしょうか。
ひとつだけつっこみどころがあるとすれば、それはやさしさの定義が曖昧で、「弱さ」を「優しさ」と思っているだけかもしれない、という点くらいでしょう。
やさしくてもかまわないはずです。
しかしながら、ただ弱いことを優しさと混同しているという場合もよくあります。本来、優しさは強さの上にしか成り立ちません。
弱すぎると、助けることすらできなくなるかもしれません。
弱すぎると、やさしさを出す場面すらないかもしれません。
やさしいのは素晴らしいことです。
せっかくの優しさが無駄にならないように、少しずつ強くなっていけばいいのではないでしょうか。
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たまに叱らないのが優しさに見えることがあります。
反省する動機が十分にあって、本人もダメージを抱えているのならいまさら追い打ちをかける必要もありません。
でも、反論されることを恐れて言わないのは優しさではありません。
「いい人」で居続けたくて、言わないのは優しさではなく弱さです。
言わないのではなく、「言えない」だけなのですから。
自分の世間体だけ考えて、相手を責めるのもよくありませんが、自分への攻撃を恐れて相手に伝えないのはただの弱さです。
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「甘すぎる」と優しさを非難する人がいます。
そういう人はだいたいブラック企業の営業部長などをしています。
相手にうまく伝えられなくても、そんな人よりは随分いいでしょう。
そんな強気な優しくない人は周りをかき乱してきます。
でも、そんな人でもやさしさはどこかに持っています。
たまに見せてくれるのですが、また怒鳴り散らします。
そうすると本当の優しさだったものが、「釣るためのパフォーマンスだったのか」と思われてしまいます。
これは相当もったいない話です。
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やさしい人は俗に言う「傷つきやすさ」を持っています。
でも本当は、心に傷などつきません。
記憶として、アイツの中の判断基準ができてしまうだけです。
同じような現象が起こる手前で恐怖心を掻き立ててきます。
でも、それは傷ではありません。ただのアイツの反応です。
反応しているときは一応「苦」を感じます。
だからそれを避けようとします。
別に嫌な人と会う必要もないので、避けられるのなら避けたほうが賢明かもしれません。
でも、目の前にライオンが現れたのならば、避ければいいですが、別に人ならそんなに恐怖することもありません。
「自分は心に傷を持っている」と感じるなら、一度疑ってみるのもいいかもしれません。
ただのパブロフの犬みたいなもので、条件反射なだけかもしれませんよ。
やさしいひとが、「心の傷という虚像」とさよならしたとき、その人はいわゆる聖人のように光り輝くでしょう。
改バージョン⇒やさしくてもかまわない 改
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