どうやら糠喜びにすぎなかった

僕は普段あまり世間的な喜びを感じることがありません。

何かにつけて喜んだとしても、喜びに舞い上がって脇が甘くなって結局失敗したり、誤解したまま喜んで後で事実を知って落胆したり、喜びも束の間自体が急変するということもあります。

ということで「どうやら糠喜びにすぎなかった」ということが起こりうるというのが、理として否が応でも成り立っているので、そうした理から現象を観ているというのが基本になります。

それが快楽的なこと、達成的なこと、苦からの解放というようなことという種類を問わず、爆発的な喜びに舞い上がるということはありません。

しかしながら全く喜びを感じないというわけでもありません。それは静けさの中でほくそ笑むというもので、おいおいそうした喜びを渇望することもないようなタイプのものです。

最近、喜んだことといえば、馬たちと一緒に歩いたことやヒグマのグーちゃんがおやつを空中キャッチしてくれたこと、みたいなものばかりで、それはその場限りで完結するようなことばかりです。

それ自体は「喜び」として捉えても良いようなことであっても、後にどう転んでいくかによって良い思い出も辛さをもたらすものになってしまう、という理から逃れることはできません。

特に人の場合は関係性が複雑だったり意志の変化が激しく不安定です。その点動物は比較的安定しています。

ひとまず喜ぶというのはいいですが、どんなときでも状況は変化するというのも諸行無常として当然ではあります。が、逆に考えると数々の不快な感情もいずれ消えるということになります。

物事への一喜一憂というものは、環境によって心が振り回されているということになるので、そうした環境への依存の内にある間は安らぎがありません。

会社の何周年のようなとき、世間的に考えれば一応祝われる立場にはあります。そうした時、「自分が達成したぞ」的な喜びは全くといっていいほどないのですが、まさに言葉のままになるものの「みなさまのおかげです」ということは事実なので、感謝の意を込めて多少なりと周りに振る舞うことにしています。

それは「何かを達成した時、自分を褒めよう」的なものではなく、本質的に本当に周りの人のおかげなのだからありがとうを伝えようというような感じです。

まあそれは税金を納める時にも同じような気持ちだったりします。例え道路作ったのは過去のことでも現役で信号機を動かすのに電気代は必要ですからね。

細かい話をすれば家の近所に生えている野草ですら酸素を供給してくれていて、極めて間接的ですが貢献はしてくれていることになります。その根元にいる菌根菌もです。

そんな感じで過ごしていると、「どうやら糠喜びにすぎなかった」と落胆することはありません。

「変に喜びを求めない」というような我が事への執著がないという感じが、まわりに回って結局安定的な静かな喜びの状態を保つという感じになるということになりましょう。

Category:笑う月

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