タグ別アーカイブ: 論理

自由意志と洗脳

自由意志と洗脳ついて書いていこうと思います。 自由意志を尊重したいのは山々ですが、まず基本的に自由意志というものはありません。もし、自由意志があるとすれば、それはアイツこと自我の領域を脱しています。 どのような人でも、どう世界を解釈し、目の前の現象にどう反応するかということが、自分以外の他人からの情報によってセッティングされています。 つまり、どこかしらは洗脳されているのです。 しかしながらそうした洗脳状態は、解いていくことができます。 まずは、自分の中にある「関数」を発見してみましょう。 「たったそれだけのことだ

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哲学と解釈

哲学することと哲学を学ぶことは大きく異なり、また哲学することと解釈することは大きく異なっています。 ではそれらは何か違うのでしょうか? その根本的な違いは、ある具体性を持ったものの内側を見ようとすることと、具体性を突き抜けて、より抽象化していくことにあります。つまり、具体性を包括しつつより全体的で統合された地点から自己解釈を再構成するということです。 特別企画の曙光(ニーチェ)完了記念ということで、何かニーチェっぽいことでも書いてみようかなぁと思っていましたが、すぐには思い浮かばず、お題を無意識に任せていました。が

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他人を喜ばせる

人を喜ばせることはなぜすべての喜びにまさるのか?― われわれはそれによって自分自身の五十もの衝動を一度に喜ばせるからである。ひとつひとつのものは極めて小さな喜びであるかもしれない。しかし、もしわれわれがそれらすべてをひとつの手の中に入れるなら、これまでかつてなかったほどわれわれの手は一杯になる。― そして心も同様である!― 曙光 422 人を喜ばせる最たるものは、自分が喜ぶことです。 人が喜んだところを見て喜ぶのが正しいのであれば、他人のそうした行動を受け入れて、その人の行動の正しさを示すことも逆説的に「人を喜ばせ

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道徳に対するドイツ人の態度

ほかならぬこの民族に満足を与えるのは、いかなる道徳であろうか?たしかにこの民族は、その心から服従癖が道徳の中で理想化されてあらわれることをまず望むであろう。「人間は、無条件的に服従することの出来る何ものかを持たなければならない。」― これがドイツ的な感覚であり、ドイツ的な首尾一貫性である。人はすべてのドイツの道徳学的の根底においてこれに出会う。 曙光 207 中腹 一部抜粋 なんだかんだで、いまだに明晰夢のようなものをよく見ます。寝る前や起きる直前も多いですが、おそらくその間であろう時間帯にもよく見ます。 つい先日

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最終的な反駁としての歴史的反駁

昔、人々は、神が存在しないことを証明することを求めた。 曙光 95 序 西洋的な方法論は、論理的な証明をやたらとしたがりますが、最終的に行き着いたポイントをよくよく見渡してみると、世界各国の土着の伝承、民話に隠されたメタファーと同じだった、というようなことがよくあります。 アメリカなどの最新研究の成果としてよく騒がれているような、哲学的な分野や認知科学の分野の方法を見ても、「そんなことは数千年前から既に説かれている」というようなものが多くあります。ただ、その頃の説明は、隠喩的でわかりにくかったというだけで、「何をい

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生贄の狡猾

身を捧げたある人から欺かれようと思い、そうであってほしいとわれわれが望む通りの姿をわれわれに見せざるを得ないような機会を彼に与えるのは、悲しい狡猾というものである。 曙光 420 犯罪者や自殺者などは、現代における生贄のようなフシがあります。 ある人が見栄のため欲のためにしたことが誰かを傷つけ、その傷ついた誰かは怒りのためにまた誰かを傷つけ、そうしているうちにある人は理性の限界を超え、犯罪や自殺というようなことにたどり着くのだと思っています。 Mr.脳筋こと孔子は、倒れている人を見た時に「これは政治が悪いなぁ」とい

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ダナエーと黄金の神

それとは反対の傾向の方を一層よく説明しそうな状況にありながら、現在人々を犯罪者たらしめるこの極端な焦燥感は、どこから来るのか?なにしろ、この人は不正な秤を使用する。あの人は、高額な保険をつけたあとで、自分の家に放火する。 曙光 204 序盤 曙光の注釈によるとダナエーは、ギリシア神話の中のアルゴスの王アクリシオスの娘ということのようです。 ということで、そのあたりについては知らないので、黄金の神的なところから始めていきましょう。 資本主義について「洗脳だ」というようなことをたまに言っていますが、おそらくほとんどの人

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隣人をもこえて

何だって?真に道徳的なものの本質は、われわれの行為が他人に及ぼす身近で最も直接的な結果を注目し、それに従って決心することにあるというのか?これは狭い小市民的な道徳であるにすぎない。 曙光 146 序 いちばん身近な「隣人」は、家族ということになりそうですが、世の中では家族がいない人もいるので、隣人とは常に接するような身近な人という感じになりましょうか。 僕は昔から実際の家族が一番大事だということを思ったことがありません。 それが何故だったのかはわかりませんが、あまり家族というものに執着自体が無かったのでしょう。 と

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最悪の敵はどこにいるか?

自分の仕事を立派に果たすことができ、そのことを意識している者は、その敵に対して大ていは和解的な気分を抱いている。しかし、別個の立派な仕事をもっていることを信じていながら、それを守ることに巧みでないということが分かると、― 自分の仕事の敵対者に対する怨恨の念にみちた和解できない憎しみが生まれる。― 各人はそれに応じて、自らの最悪の敵がどこで求められるかを見積もるがよい! 曙光 416 人類史上、最も優れた発明は「ゼロ」の発見であるということを言う人がいます。しかしながら一方で、その「ゼロ」は、数学的には偉大な発明であ

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利己主義対利己主義

利己主義対利己主義と、これはまあ面白みのあるタイトルです。 社会の中で議論されているような題材のことは、概して利己主義対利己主義で、社会目線の議論の中で、より優れた理論を武器に結局他人を説得しようとしているものにしかすぎません。 もし、「何が正しいか?」ということに対して思索が動き出したなら、次のように考えることをおすすめしておきます。 「これは私にとって正しいのか?」 ということです。 何かの基準を元に行動を選択するということを常々しているはずですが、そうした基準を持つ際に「社会性」を徹底的に排除すべきなのです。

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罪としての懐疑

キリスト教は円を完結するために全力を尽くした。そして懐疑はすでに罪であると告白した。人は理性なしで、奇蹟によって、信仰の中に投げこまれるべきであり、さてそれから信仰の中を、最も澄み切って明白な活動舞台にはいったように、泳ぐべきである。 曙光 89 前半 「懐疑はすでに罪である」という構造は、カルトを含め世界中の宗教によくありふれている構造です。 「疑うということは信仰心がない」 そういって、考えることをやめろ、という感じにもっていきます。 これは一方で正しく、一方で誤りです。 なぜなら、「疑い、考える」ということは

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道徳教師の虚栄心

道徳教師が全体として成功することが少ないのは、彼らがあまりにも多くのものを同時に望んだこと、すなわち、野心に燃えすぎていたことで説明される。彼らはあまりにも快く、万人に対する処方箋を与えようとした。 曙光 194 序 万人がこぞって理解できるような道徳というものはなかなかありません。道徳が倫理的なものであり、社会の中の関係性を示すようなものだからというのがその最たる理由でしょう。 ともすれば、全体に適用するのか個に適用するのかというような尺度を元に、功利的・数量的に全体を包括しているもののほうが優れているというよう

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われわれの自由になること

われわれは園芸家のように、自分の衝動を思いのまま処理できる。そして知る人は少ないが、怒りや、同情や、思案や、虚栄心などの芽を、格子垣の美しい果実のように実り多く有益に育てることができる。 曙光 560 序 僕は昔から怒りをエネルギーに変えます。仕事関係でも革新的なことが起こる時は大体怒りの爆発的なエネルギーを昇華した時と相場は決まっています。 それは誰かに対して攻撃をするというようなことではなく、「そうした人たちのせいで不利益を被っている人たちがいる現状」というものに対して怒りのパワーが湧き起こってくる感じです。

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過度を避けよ!

到達することのできない目標つまりは自分の力に余る目標を立てることによって、少なくとも自分の力が最高度に緊張したとき達成できるものに到達しようとすることが、何としばしば個人に勧められることだろう!しかしこれは実際それほど願わしいことなのか? 曙光 559 前半 「目標を立てよう!」ということは学校であれ、会社の営業部であれ、いつでもどこでもよく行われていることですが、目標が具体的で近いものは、それがある意味でまあまあ困難そうなものでも、設定の仕方としてはあまり推奨されるものではありません。 そうした設定は、すごく抽象

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すぐれた四つ

われわれと平常われわれの友人であるものに対して誠実、敵に対して勇気、敗北に対して寛容、常に― 礼儀。四つの主徳はわれわれにこう望む。 曙光 556 いきなりこんなところで、疾きこと風の如く、徐かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如し、といったように戦国武将のような項目になっています。 だいたい「やばい」とされるのが、こうした標語を社長室に飾っている人です。ブラック企業に限って、「十訓」みたいなものを掲げていたりします。 「従業員を人間として正しい道に導くことが私の使命だ」という感じで思っていた

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いわゆる高級!

諸君は、同情の道徳はストア主義の道徳よりも高級であると言うのか?証明せよ!しかし、道徳の「高級」と「低級」とは再び道徳的な尺度では測られないということに注意したまえ。なぜなら、絶対的な道徳というものは存在しないからである。そこで物差しはどこかよそから手に入れたまえ。― さあ気をつけて! 曙光 139 何かを判断しようと思うと基準が必要になり、その基準はその枠内以外にしておかないと、判断がおかしくなることがよくあります。 いわば内輪判断では、無意識的に恣意的な判断をしてしまうことがありますし、論理上でも集合の外側でな

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最も些細なものでもすでに十分である

最も些細なものでもすでに十分強くわれわれに印づけられていて、― どっちみちわれわれはそれらを免れることはないのだ、ということが分かったら、われわれは数々の出来事から遠ざかるべきである。― 思想家は、彼らが一般になお体験しようとする事物のすべての大よその基準を、自分の中に持たなければならない。 曙光 555 経験したことは全て無意識が覚えている、なんてなことがよく言われますが、まあそうであるなら当然に「何が欲しいか」とか「何が好きか」とか「何がしたいか」というものも無意識レベルで形成されているはずです。 自分で好きな

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廻り道をして

この哲学全体はそのすべての廻り道を通ってどこへ行こうとするのか? 曙光 553 序 哲学をやりだすと、徹底的に廻り道をしてしまうことになりますが、もしかしたらある程度は必要なプロセスなのかもしれません。 誰にでも分かるようなもので、完全な哲学があれば、それ以外のものは残っていないはずですが、ルートとして幾多の可能性があるため、それぞれがそれぞれの表現で、それぞれの思考ルートをたどって行くことになるのでしょう。 ただ、最終的には小学一年生の問題集から、ノーベル賞くらいの発見をするような形で飛び越えることになります。

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理想的な利己心

妊娠の状態よりも荘重な状態があるだろうか?われわれのするすべてのことは、われわれの内部で成長しつつある者に何らかの意味で役立つに違いない、という密かな信念のもとになされる! 曙光 552 序 利己的ということを考えた時に、「それは利己的であり、受け入れられない」と言っている人も、「常識」や「全体を優先する」という観念のもとなんだかんだで利己的であり、「利己的」という言葉は、あまり意味をなさない言葉でもあります。 社会的な合議の場なんかで利己的だと、周りから非難が飛び交うというくらいのもので、どうあがいても自己中心的

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将来の徳について

世界が理解しうるものになればなるだけ、それだけ一層あらゆる種類の荘厳が減少したというのはどうしてであろうか?あらゆる未知のもの、神秘的なものに面したときわれわれを襲い、理解できないものの前に崩折れて恩寵を願えとわれわれに教えた、あの畏敬のいたく根本的な要素は恐怖であったからか?そしてわれわれが恐怖感をもたなくなったことによって、世界はわれわれに対する魅力をも失ったのではないであろうか? 曙光 551 前半 何となくイメージとしてですが、功徳を積むと良いことが起こり、そして功徳を積むには忍耐が必要だというようなことが

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罰する正義

「あなたの為を思って言っている」 という場面がよくありますが、99%くらいは嘘で、発言側の見栄や「恥をかきたくない」という恐怖心が発端で、そういう言葉を発しています。 そんなことは中学生にでもなれば分かることのはずですが、その発言者の人は自分も中学生を経験しているはずなのに、よほど鈍感な中学生時代を過ごしたのか、どうもそういう嘘をつきます。 嘘と言っても、本心も数%も入っているでしょう。 ただ、純度100%で相手を思い、説教するのはそれ相応の人くらいです。せめて菩薩レベルでしょう。 まれにそういう人がいますから、一

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よりよい人間たち!

社会をより良くしていこうとするのはいいのですが、たいていの場合弱者にばかり合わせる形で玄人を制限し、あげく「選べない」という形で辟易させ、結果社会の加速を制限していることにそろそろ気付きましょう。 すごくわかりやすいのはガスコンロでしょうか。 「天ぷらを揚げている途中に電話がかかってきて長電話になり、天ぷら油から火災が発生」 という事が多すぎて、強火のままでいきたいのに「カチッ」と勝手に弱火になり、調理の流れが制限されるということが起こっています。 問題は、「一つのことしかできない人」にあるはずですが、そういう人に

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「自己逃避。」

バイロンあるいはアルフレッド・ドゥ・ミュッセのように、自分自身に対して短気であり、陰鬱であり彼らの行なうすべての店で逸走する馬に似ていて、そればかりでなく、自分自身の創作から、短い血管をほとんど破裂させそうな喜びと情熱だけを獲得し、その後でそれだけ一層冬のような寂莫と悲観とを獲得するような、あの知的な痙攣の人間たち、― 彼らはどのようにして自己の内面で我慢できようか!彼らは「自分の外」のものに同化することを渇望する。 曙光 549 前半 今回も例のごとく 「バイロンあるいはアルフレッド・ドゥ・ミュッセのように」 と

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ヨーロッパ的でなく、高尚でない

キリスト教には、何か東洋的なものと何か女性的なものがある。これは「神はその愛する者を懲らしめる」という思想の中にあらわれている。なぜなら東洋の女性たちは、懲らしめと世間からその身を厳しく隔離することとを夫の愛のしるしと見なし、このしるしが中絶すると不平を訴えるからである。 曙光 75 「誘惑者」で触れていますが、同級生のお母さんたちはみんなお母さんという感じですが、最近では「お母さんではなく一人の女性として」というような風潮になってきているのか、未だに「若い女」を目指そうとしているような雰囲気があります。 それと同

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キリスト教徒の底意

次のことが第一世紀のキリスト教徒のごく普通の底意ではなかったろうか。「罪がないと思いこむよりも、罪があると思いこむ方がよい。というのは、はなはだ強力な裁判官がどんな気持ちでいるのか、よく分からないから。― しかし裁判官は罪を意識している者ばかり見つけたいと思っているのではないかと気がかりでならない!彼は大きな力をもっているので、自分の面前の人間が正しいということを認めるよりも、罪人を赦す方がたやすいであろう。」 曙光 74 前半 正しいと認めるよりも赦す方がたやすい、というところは面白いですね。 世の中はけっこう曖

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