タグ別アーカイブ: 哲学

新しい眼で見る

「新しい視点」と銘打って、それまでの考え方から一歩進んで物事を考えてみよう、と学校や研修で説かれることがありますが、説いている方も大したことがない上に、「人が一応納得するレベル」の話しかしてくれないので、根本からガラッと変わることは少ないでしょう。 たまにガラッと変わるようなこともありますが、基本的に人間は、とてもショックな出来事がないとなかなか考え方は変化しません。 頭で一度理解したようなことでも、感情による抵抗によって元の木阿弥になることはよくあります。 パラダイムシフトで一時的に興奮状態に ちょっと想像した「

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見せかけの利己主義

大人数の人々は、彼らがその「利己主義」について何を考え、何を言おうとも、それにもかかわらず、一生涯自分たちの自我のためになることは何も行わずに、彼らの周囲の人々の頭の中で彼らに関して形作られ、そして彼らに伝えられた自我の幻影のためになることだけしか行わない。―その結果彼らはすべて一緒に、非個人的な意見や半個人的な意見、勝手な、いわば文学的な評価の霧の中で暮らしている。あるものは、いつも他者の頭の中で、この頭はまた他の人の頭の中で、というようにして暮らしている。奇妙な幻影の世界であり、それは同時に非常に冷静な外見を呈

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ドグラ・マグラ

本は今までにたくさん読みましたが、特に興味もわかなかったというのが本音です。しかしながら、「ドグラ・マグラについてはどう思われますか」というご質問を受けたのでついでに読んでみた次第です。 ということで、先日読んだのはドグラ・マグラです。著作権保護期間が切れているため、青空文庫にあります。 「ドグラ・マグラ」夢野久作 文自体はそこそこ長いですが、すぐに読めます。どんな内容かは、読めばわかるので読めばいいと思います。読むと気が狂うと言われるそうですが、狂いません。別に普通のことが書いてあるだけです。読んでいて思ったこと

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結婚の偶然

「まだひとりぼっち?」というような広告がよく出ます。まだどころか全存在は永久に独りです。独りでないかのように感じるのは錯覚ですから、独りであっても、誰かといても、結局は独りなのだ、と肝に銘じるどころかそれが自然です。 好きな人がいればその人と結婚すればいいですが、「出会いがないけど結婚がしたい」という人は、今一度自分がどういう理屈でそのようなことを考えているのか考えてみたほうがいいでしょう。 「みんなが言っている」というのは、世間の人を説得できても、僕のような類には通用しません。それは根拠として乏しいどころかナンセ

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不死を夢見る人々に

大昔からでしょうか、不老不死を追い求めるようなテーマは数知れず、今でもアンチエイジングという言葉がちらほら歩いています。 すいませんが、老いなかった人も、死ななかった人もいないので、現在もそのような人を確認できないわけですが、どうしてそんなにその事実を無視するのでしょうか。 しかしながらそんな事実よりも、もっと忘れそうになるのが、「不死は幸せだ」は本当か、ということです。夢見ているのだから、いいものだと思っていることは間違いありません。 おそらくイメージでは今の苦しみがないような楽しい毎日の永続です。しかしながらそ

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どれほどの力が現在思想家の中に集まらねばならぬか

考古学者や国語学者という言葉を見ても「ああそうですか」という感じがしますが、なぜか「哲学者」という言葉を見たときには違和感を感じます。 同様に、陶芸家、噺家、という言葉を見てもなんとも思いませんが、「思想家」という言葉には「関わらないほうがよさそう」という感じがします。 哲学や思想 その原因は、哲学や思想が人生の根幹に関わりそうな事柄だからでしょう。テレビ番組を見るような感覚でその場の楽しみとしては聞き流せないような事柄を取り扱っているからこそ、変な感じがします。 その変な感じには、やはり「学問なのか?」というよう

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「純粋な精神」の偏見

純粋な精神、純粋な人、そういう時に使われる「純粋」は、純粋ではなく愚かなだけの可能性が高いでしょう。無知が一番の元凶と言われますが当然です。 ここでいう無知は、「日本語を知らない」とか「テストの点が悪い」とかいうものではありません。純粋すらアイツに利用されます。 そういう観念、ラベリングがあると、「純粋、あるがまま」といっても、キャンバスにペンキをぐちゃぐちゃに塗って「何にもとらわれない芸術」という結果を生み出す原因になります。 無知と純粋 じゃあ何が無知なのか。何が純粋ではないのか、ということに疑問が出てくるでし

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効用からの誤った推論

守護霊が見えたから、やっぱり守護霊はいるんだ、というような事を本気で信じている人がいますが、そういうことはやめておいたほうがいいでしょう。 やめろといってもどうせそのままは聞き入れないことくらいはわかっていますから、やめておいたほうがいい、というふうに言っておきますが、それは存在を肯定しているわけではない、ということは断言しておきます。 「それを守護霊と呼ぼうが構わない」という類ではありません。「時にそれは魂や真我と呼ばれるが、その人には守護霊というふうに出てきた」というような類ではないということです。そんなものは

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命令の証明

一般にある命令 ―の良し悪しは ―それが厳密に実行されたとして、その命令の中で約束された結果が生じるか、生じないかによって証明される。 道徳的な命令の場合は― ほかならぬ結果が見通されえないものであり、あるいは解釈しうるものであり、曖昧である― この命令は、全く学問的価値に乏しい仮説に依存しており、この仮説の証明と反駁とは、結果からでは、根本的に同様に不可能である。 曙光 24 抜粋 毎日何かに拝んでいて、しばらくして病気が治った、と。 しかしながら病気が治ったことを根拠に「拝んだから治った」といっても何の証明にな

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よい自然と悪い自然

自然か人混みかの二択なら、断然自然によく行きますが、三流のコンサルですら何かの本で読んで知っているように、自然を見て「いいなぁ」と思える原因としては、「視界が開ける」ということが一つのポイントになります。 これを何処かでサービスとして味わおうとすると、ただ単に視界が開ける、ということを味わうがために料金は数倍になったりしますが、それでも需要があるということは、それだけ不自然な状態の中にいつもいるということでしょうか。 空間の認識として 自然の中で、どこまでも視界が開けているように見えても最後は霞んでたいてい白みたい

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道徳の歴史における狂気の意義

狂気という言葉は、「みんながやっていないことをやっている」という意味で、常識はずれの範疇にあります。 その常識はずれの中でも自分に害がありそうなものは「狂気」になり、自分の利益になりそうというようなことは「偉業」などと言われたりします。 無害というかほとんど自分とは関係なさそうならば、印象は「変な人」くらいのものです。 それくらい人の評価と言うものは自己都合によって変化してしまいます。 かつてのナチスも、暴力的な支配ではなく民主主義によって動いていたので、その時代のドイツにおいては彼らの行動も国内の評価としては偉業

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倫理の感覚と因果関係の感覚との相互運動

倫理の感覚と因果関係の感覚との相互運動ということで、ニーチェはまさに曙光のこの項目で、核心に迫るようなことを言っています。 「必然的な作用を把握する」、つまりあるがままの因果関係だけ把握できれば、アイツの特性である、空想的な因果関係が破壊されるということについて触れています。 空想的な因果関係を観察する 「空想的な因果関係」とは先に触れたような風習によってもたらされる倫理的規定からもたらされる妄想であり、アイツの得意とする「関連思考」に無意識的な信念まで組み込まれてしまっているような状態です。 つまり、迷信のような

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変容

ずっと変わらないものというものはありません。それは自分が過去との対比との中で変化を検証している対象のみならずです。 「常に変化している」と知りつつも、それを思い浮かべるとき油断していると「この街もずいぶん変わったなぁ」というような感想を持つのがせいぜいです。そういうことではなく、一瞬一瞬で捉えきれないほどのスピードで全てが変化しています。いわゆる諸行無常です。 すべての現象は、常に変化を繰り返しています。同じ状態にとどまったことは一度もありません。 変化を認識するために 「変化している」というのはある意味で、印象で

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夢想された天体不調和に反対

ニーチェは時々こういった、自称アーティストの劇団員がソーシャルネットワークでつぶやきそうなことを言います。ただ、これはタイトルであって、続きがあります。彼には彼なりの考えがあったので、今回は引用します。 夢想された天体不調和に反対。―われわれは多くの誤った雄大さを再び抹殺しなければならない。それはあらゆる物がわれわれに要求する正しさに反対するからである!そこでこのためには世界を事実以上に不調和に見ないようにすることが重要なのだ! 曙光 4 戯言の領域を離れませんか、ということですが、肝心なのは「見ないようにする」と

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物には時がある

物が物として存在するためには時間が必要になります。 すごく簡単な話で、認識するためには時間が必要だからです。 認識がなければ物は存在していようが、存在していないのと同じです。五感のうちのいずれかに認識されなければ、無いのと同じです。 そしてほんのわずかでも認識には時間が必要になります。ストップウォッチでは測れないほどの時間かもしれませんが、時間が必要になります。 もし時間という解釈がなければ、五感は働きようがありません。時間の解釈は一応意識が行っています。つまりアイツの領域です。 実際には物が存在するというよりも主

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身体の限界と楽しみの限界

僕は体育会系ではありませんから、身体の限界と銘打っていますが、特に運動能力的なことについて触れるわけではありません。いわゆる五感を通しての楽しめる限界についてです。 やたらと楽しいことを求めてしまうのは「アイツ」の仕業ですが、楽しみについて以前少し考えたことがあるので、一応書き記しておきましょう。 必要以上にお金を欲しがってしまうのは、ひとつは安心感、もうひとつは楽しみを求めるせいですね。安心感については今までにもさんざん書いてきました。楽しみについて今回は書いていきましょう。 精神力と身体 精神というものは体と密

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風呂

風呂につかると気持ちがいい。体の汚れを落とすと不快が消える。すごくわかりやすいことです。これは非常にわかりやすいパターンなのですが、視点の違いで本質というものが見えてきます。 どうしても風呂につかるという「行為」に視点が置かれて、「なにかをする」ことがいいことなのだ、ということになりそうですが、既にカンのいい人は気づいていることでしょう。 「負荷が軽減する」という視点です。ゼロから何かが増えたわけではありません。つまり、不快な状態が「おかしい状態」で、通常に戻るというプロセスが、風呂に入る、ということになります。皮

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最大の「がっかり」

がっかり 「がっかり」 そう聞くと、期待があって、それが叶わなかったときに起こるものです。何かが「こうあるべき」「こうだろう」という思い込みがあります。表面上は「絶対にこうだ」というようなふうに表れているかもしれません。 そういう前提があって、そうなるだろうと予測、期待していたのに、それ以上の成果なら「おおすげぇ」「予想以上によかった」という感想が、それをダメな方に裏切られた場合は「がっかり」というものがやってきます。肩を落とすというふうに表現されたりしますが、まさにその通りに体も反応します。 ということで「期待す

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読書の秋

読書の秋と言われますが、読書は季節を気にしてはいけません。と、言いつつもやはり涼しくて読みやすい季節ですね。 「読書とは思考の戦場である」、といった旨のことを言った人がいますが、戦ってはいけません。戦いたくなる気持ちはよくわかりますが、戦わずにサラッと流しましょう。 本を読む人は頭がいい、ということがよく言われるそうですが、頭がいいということは「いい」ということには直結しません。それに知識ばかりで苦しんでばかりの人がたまにいます。それは本当に馬鹿げたことです。 昔は愛読書というものが数十冊あったのですが、今は完全に

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宗教代

京都にはたくさんの寺があります。そして家の固定電話が鳴ったと思ったら葬式の勧誘と墓の勧誘、そして保険の勧誘ばかりですね。どれも死にまつわるようなビジネスです。 一生にかかる宗教がらみの費用を一切払わないことにしています。 葬式を筆頭に花代や季節ごとのイベント費用を考えると相当の無駄金です。それをトータルすると1000万円くらい無駄に払うのではないでしょうか。お花屋さんはいいですが、宗教屋に払うつもりはありません。 先日、社長仲間から瞑想体験というものに誘われました。しかし5000円程度かかるそうです。どうしてタダで

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時間と主観

主観と客観というふうに、ひとまず私から見た場合、外から見た場合、というように分けて考えるような手法は、「人に説明する場合」に限って意味をなしうるだけで、本来的に主観しかない。ということは主観も客観もない。 しかしながら、いわば客観というのは「説明のための仮止め」にしか過ぎないはずだが、いつしか客観を軸に物事が語られるようになった。 確実に「存在するもの」として、時間は絶対にある、というような事を聞くが、そんなことは「対外的」に証明することもできなければ、何かしらの観測結果がその証拠となり得ることもない。 こんなこと

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なぜ、人をいじめてはいけないのか

なぜ、人をいじめてはいけないのか、いじめがいけない理由について、その根本理由を考察する。善悪に関することについて触れる場合、社会的な議論の上では、即時的に「悪」「排除すべきもの」という前提が、議論されることなく置かれ、また、「いじめ」などは「悪であること」と、当然のこととして、それに関する社会学的考察、自分たちが取るべき立場が定められる。 「いじめはいけないことです」 「いじめがダメなことは決まっています」 社会の中では何の根拠もなしにそんな事が説かれることがある。 いじめがいけない理由を根拠付けるには善悪基準が必

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ニヒリズム

「○○さん!そこの場面、ニヒルな感じの笑いでお願いね!」と、売れていない劇団の劇中などで安易に使われますが、このニヒリズム(虚無主義)というものについて考えてみましょう。 ニヒリズム(虚無主義)についてですが、この哲学上の立場としては、「すべての物事・現象には価値がない」としますが、この場合の無価値の「無」は有の対義語ではないかもしれず、消極的ニヒリズムを超えた積極的ニヒリズムとして「価値を作り出す」ということは、ニヒリズムの根底にある「無価値」とは矛盾します。 虚無主義と呼ばれますが、ぱっと検索しても全く的を得て

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唯物論者

唯物論者とは、もちろん唯物論を支持している人たちであり、この唯物論は、全てを物の作用、物理的な現象として捉えるという感じであり、客観的な世界を肯定し、物質の状態や現象が全てであるというような考えです。 かつて読んだ本に「生理学者の99%は唯物論者です」という一文がありました。 まずイラッとするのは「生理学者のような頭のいい人がみんな言ってるんだから唯物論が正しいよね」という誘導の傾向が見られることですが、そんなことは本題ではありません。 たとえ、生理的機能が物理的に観測可能であっても、「全部、物質の作用にしか過ぎな

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哲学する 2014

読書の秋を感じさせる涼しい風が時折舞い込んできます。 エアコンが故障したこともあって、頭がぼーっとしている日が多かったように思いますが、それどころではありません。一切力が入りません。 特に最近使っていないものということで、最近あまり頭を使いません。使わなくても何とでもなるので、使わなくなりましたが、本を読んでお勉強の類の時に出るハイな気分を味わいたい、ということをたまに思います。しかしながら、特に読みたい本がありません。実は頂上の一点、というかすごく簡単なポイントさえ悟ってしまえば、力んでお勉強がすごく馬鹿げたもの

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