うまい米を取り寄せる

そういえば最近、米を変えたというか、うますぎる米を発見したので取り寄せることにしました。 以前マイプロフィールで少し触れましたが、僕の大好物は白米です。 個人的には外食が好きではありません。その理由は大半のケースで自分で作ったほうが美味いからです。 あまり外食に行かないのは、特に外食費がもったいないというわけではなく、そのぼったくり感に違和感を覚えるからです。 そういうわけで醤油や塩も少し高いものを使っています。そういうものの値段差など、外食費に比べれば安すぎますからね。 長野県塩尻産の米 今年のツアーで木曽路を通

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聖職者の襲撃

「君はそれを自分自身で決着をつけなければならない。なぜなら、それは君の生命の問題であるから!」― こう叫んでルターが跳びかかってくる。首に短刀がつきつけられたようにわれわれは感じるだろう、と彼は思う。われわれはしかし、高級でより思慮深い人の言葉で、ルターを近づけない。「あれこれのことについて、全く意見を立てず、こうしてわれわれの魂から不安を免れさせるのは、われわれの勝手である。なぜなら、物自身は、その本性上、われわれからいかなる判断をも強奪することはできないからである。」 曙光 82 哲学的・倫理的な格言は、時に自

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小心者

ほかならぬ不器用で小心な人たちこそ殺害者になりやすい。彼らは目的にかなった小さな防御なり復讐なりの心得がない。精神と沈着な心構えとの欠乏のため、彼らの憎悪は絶滅以外の打開策を知らぬ。 曙光 410 なんだか曙光のこの項目を見ると北九州一家監禁殺人事件の緒方純子受刑囚を思い出します。それだけでなく、世のDV被害者が浮かびます。変な宗教まがいの団体に洗脳された人たち、パートナーに洗脳されてしまった人たちがどうしても思い浮かびます。 小心者といえば、気が小さい人や臆病者のことをさしますが、時にそうした小心者を餌食にして自

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われわれの自由になること

われわれは園芸家のように、自分の衝動を思いのまま処理できる。そして知る人は少ないが、怒りや、同情や、思案や、虚栄心などの芽を、格子垣の美しい果実のように実り多く有益に育てることができる。 曙光 560 序 僕は昔から怒りをエネルギーに変えます。仕事関係でも革新的なことが起こる時は大体怒りの爆発的なエネルギーを昇華した時と相場は決まっています。 それは誰かに対して攻撃をするというようなことではなく、「そうした人たちのせいで不利益を被っている人たちがいる現状」というものに対して怒りのパワーが湧き起こってくる感じです。

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名とすべて

どうしても昔から「終わり」に対する嫌悪感がどこかにありました。それはアイツとして一つの死を意味するということでもあり、そして次に来る未知への恐怖でもありました。 ― 雑記第100投稿目記念として、長文かつほとんどの人には理解できないかもしれないような感じで書いていきます。哲学テーマでもいいのですが、雑記にしておきます。 分離 ある時から分離が始まりました。 友だちになれると思っていたら、どうも友達にはなれなかった。 そんなことを経験したことは数知れずです。 友達だと思っていた人が、自分の知らないところで変わってしま

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夢の中の世界

昔から何度も見るような夢の中の世界があります。 まあ本ブログは僕の私的集大成的サイトですので、何でもかんでも書いていこうと思います。 特に夢日記を作っていた事があるというわけでも何でも無く、幾度となく夢の中に表れる世界があり、各回で出てくる場所はそれぞれ異なりつつも、以前の夢と空間がつながっているようなひとつの異次元ワールドがあるわけです。 つまり、同じような夢を何度も見る、というわけではなく、夢の中に出てくる世界同士、というより場所同士がつながっているのです。 なんならそれぞれの具体的な場所を全体地図で示すことも

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病気

病気の意味は次の通りである。老齢、醜悪、厭世的な判断などの時ならぬ接近。これらのものは相互に関係しあっている。 曙光 409 病気は、その昔「よくない状態」というような意味だったということを聞いたことがあります。今のように科学的に捉えることができなかったということが元となりますが、単純によくない状態という感じです。 そして、一部例外を除いて大半の病気は原因がストレスだという事を聞いたことがあります。病気とは字面を見る限り「病」と「気」なのでまさに「病は気から」という感じになります。といっても、免疫の関係もありますか

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賞讃と非難

戦争が不幸な結末に終わると、人々は戦争に「責任」のある者を気にかける。戦争が勝利のうちに終わると、人々は戦争の張本人を賞讃する。責任は失敗のあるところではどこでも追及される。なぜなら、失敗は必然的に意気消沈を伴うからであり、これに対しては、ただひとつの治療法が思わず知らずのうちに適用されるのである。それは、力の感情の新しい興奮である。 曙光 140 序盤 人からの賞讃や非難などは、その人の気分次第であり、動機等々何かの根拠にしてはいけないものです。 他人から賞讃を受けると喜び、非難を受けると落ち込んだり起こったりす

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聖者の人間性

世間の聖者のイメージとしては、どこかしら厳しい戒律を守っていて、温厚で優しい人というイメージがあると思いますが、僕は昔からこの戒律というものについて首を傾げていました。 なぜなら、「戒律を守らなければならない」「律法を遵守しなければならない」という一種の制限自体が、戒律を破る動機の存在を認め、また、強制されることでそれ自体が苦しみとなるのではないか、ということを考えたからです。 「決まっているからやってはいけない」 「戒めなのだから守らなければならない」 というのは、明らかに義務教育的です。 そういうことを言い出す

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寛大がひろく必要なところ

多くの人たちは、公然たる悪人となるか、あるいはひそかな憂苦のにない手となるか、を選ぶにすぎない。 曙光 408 昨日、独りで散歩しました。その時にふと考えたことは、どうしても、「人は人に合わせると実力を発揮できない」というようなことです。 ふと今まで働いてきた数々の仕事を思い出しました。 自分を自由にさせてくれる上司の場合は、人の倍くらいの結果を残し、親切心で何かと教えてくれる上司がいる場合は、逆に「甘え」が生まれ、「やり方の制限」がかかり、人の半分くらいしか本領を発揮できなかったというようなことを思い出しました。

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過度を避けよ!

到達することのできない目標つまりは自分の力に余る目標を立てることによって、少なくとも自分の力が最高度に緊張したとき達成できるものに到達しようとすることが、何としばしば個人に勧められることだろう!しかしこれは実際それほど願わしいことなのか? 曙光 559 前半 「目標を立てよう!」ということは学校であれ、会社の営業部であれ、いつでもどこでもよく行われていることですが、目標が具体的で近いものは、それがある意味でまあまあ困難そうなものでも、設定の仕方としてはあまり推奨されるものではありません。 そうした設定は、すごく抽象

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われわれの性格に反して

われわれの語らなければならない真理がわれわれの性格に反するとき― これはしばしば起こることだが―、われわれは下手な嘘をついているような振舞いをし、不信をまねく。 曙光 407 「語らなければならない真理がわれわれの性格に反するとき、下手な嘘をついているような振舞いをし、不信をまねく」 それが揺るぎない理であっても、一般的に都合が悪いこと、耳障りなことであれば、語り口調が変になり、自信がなさそうに見え、不信を招いたりすることがあります。 ― そして頭はどうしても矛盾を嫌います。 だから、完全に消化しきれるまでは、思考

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同情的なキリスト教徒

隣人の苦しみに対するキリスト教的な同情の裏面は、隣人の喜びのすべてを、隣人が望みまたなしうるすべてのことに対するその喜びを、深く邪推することである。 曙光 80 どんなことでも、それを面白いこととして笑ってしまうことができます。それが悲劇の哀愁であっても、悔しさであっても絶望であっても、笑ってしまうことはできるはずです。 勤め人時代、職場の先輩二人とお好み焼き屋に行った時のことです。 「○○さんって、犬に似てますよね」 と言ったところ、 「どういう意味や!」とキレられたことがあります。 僕としては、犬顔、猫顔、キツ

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しかしその徳もまた隠すな!

透明な水であって、ポープの言葉を借りて言えば、「その流れの底にあるきたないものを見えるようにさせる」人間たちを、私は愛する。しかし彼らにとってさえやはり虚栄心がある。もちろんめったにない洗練された種類のものではあるが、彼らのうちの二三人は、われわれがまさに不潔なものだけを見て、このことを可能にする水の透明度を無視する事を望む。余人ならぬゴータマ・ブッダは、「諸君の罪を人々の前に見えるようにさせて、諸君の徳を隠せ!」という定式で、これら少数の人たちの虚栄心を考え出した。しかしこれはすばらしい演劇を世界に与えないことを

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不滅にする

敵を殺そうとする者は、ほかならぬこのことによって、自分の心の中で敵を永遠なものにしないかどうか、とくと考えてみるがよい。 曙光 406 先ほどは闘争心について書きましたが、考えてみれば今まで敵というのも相応にたくさんいました。 そして大体の敵の特徴は、「少し年上の体育会系」でした。 十代の時は、普通に過ごしていてもなぜだか「なめている」という判定をされ、時々絡まれたりもしたものです(勘違いの証明)。 少し年上の体育会系というものは、勝手にこちらを下だと判断した前提でやってきては、やたらと従え、立てろ的な空気を出して

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敵に向かって

われわれが敵に向かって行進するとき、悪い音楽と悪い理由とが何と立派に聞こえることだろう! 曙光 557 Z会の方もそうでない方も、男性であるからには、本能的に闘争心がどこかに眠っているはずです。 何となくのジリ貧で、周りに合わせつつも、どこかでそうした細かな制限を吹っ切りたい、そんなことを思っている人は結構いることでしょう。 大きな攻撃には、窮鼠猫を噛むように闘争心が湧き起こり思いを吹っ切ることもできますが、そうでもないような細かな攻撃にはだいたい、少しダメージを受けながら耐え忍んでしまい、そのうちダメージが蓄積し

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贅沢

贅沢癖は人間の心の奥底にまで及んでいる。余計なもの、過度のものは、彼の魂が最も好んで泳ぐ水であることを、この癖は示している。 曙光 405 贅沢を感じている時、おそらくそこには「我慢」や「妥協」がありません。 贅沢だと感じるレベルもあると思いますが、そのレベルに応じて我慢や妥協、身体的苦しみが少ないはずです。 「たまには贅沢がしたい」 と思う時は、その裏側に積もり積もった我慢があるはずです。 ただ、贅沢と我慢の関係を見ても、そのまま対義的な関係にあるわけではありません。 なぜなら贅沢だと言いつつも、一般的な贅沢に虚

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すぐれた四つ

われわれと平常われわれの友人であるものに対して誠実、敵に対して勇気、敗北に対して寛容、常に― 礼儀。四つの主徳はわれわれにこう望む。 曙光 556 いきなりこんなところで、疾きこと風の如く、徐かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如し、といったように戦国武将のような項目になっています。 だいたい「やばい」とされるのが、こうした標語を社長室に飾っている人です。ブラック企業に限って、「十訓」みたいなものを掲げていたりします。 「従業員を人間として正しい道に導くことが私の使命だ」という感じで思っていた

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諸行無常

メインテーマとしながらも、投稿数の少ない哲学テーマですが、あえて「諸行無常」についてでも書いていこうと思います。 諸行無常について、仏教的な解説や哲学的なアプローチを行っていますが、仏教的な諸行無常の正確な説明、解説というのを期待されるよりも、この諸行無常(しょぎょうむじょう)というラベリングから何かを掴み取っていただければという趣旨で書いていきます。 日本において諸行無常という言葉は、平家物語の冒頭にある「諸行無常の響きあり」という部分のイメージが強すぎて、本来の意味での諸行無常を捉えること無く、印象的に「そうい

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心にググっと群馬県 まとめ

心にググっと群馬県 まとめ

心にググっと群馬県、ということで群馬ツアーの記事が結構あるのですが、一覧化したくなったので、まとめページを作っておきます。 上毛三山にちなみまして妙義山・榛名山・赤城山という分類にしておこうと思います。なお、順序は京都からの位置関係です。 碓氷・妙義 心にググっと群馬県 2014 碓氷~妙義 心にググっと群馬県 2015 碓氷峠「アプトの道」 心にググっと群馬県 2015 妙義山 心にググっと群馬県 2014 富岡製糸場 ぐんまけん! 榛名・伊香保 心にググっと群馬県 2014 榛名~伊香保~赤城 心にググっと群馬

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第1000回投稿記念

これで1000記事目になります。1000回目の投稿ということで「第1000回投稿記念」です。桁が一つ増えました。なお、ブログスタートから3年半くらいです。 前回の第900回投稿記念は、2017年8月13日だったので、前回からの100記事はまあまあの速度で投稿したという感じです。その前は、1年3ヶ月かけて100記事でしたが、今回は早かったですね。 今回の投稿記念の回は、「桁がひとつ上がったぞ」記念ということで、またまた日を分割して書いていきます。そして、さらにいつもと違ったような感じで書いていきましょう。 さて、常連

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ひとつの提案

パスカルやキリスト教がいうように、われわれの自我がいつも憎むべきものであるとすれば、他のものが― 神であれ、人間であれ、自我を愛してくれるということを、われわれはどうしてそのとおりに許したり、受け入れたりすることができようか! 曙光 79 前半 何度かは触れていますが、アイツこと自我は敵ではありません。もちろんあなたの一部であり、ただ騒いでいるだけなのです。 敵視しても倒すことはできません。 バトルになるということは、同じフィールドでどちらかが勝つというようなある種対等な関係にあるはずですが、アイツとの関係において

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いわゆる高級!

諸君は、同情の道徳はストア主義の道徳よりも高級であると言うのか?証明せよ!しかし、道徳の「高級」と「低級」とは再び道徳的な尺度では測られないということに注意したまえ。なぜなら、絶対的な道徳というものは存在しないからである。そこで物差しはどこかよそから手に入れたまえ。― さあ気をつけて! 曙光 139 何かを判断しようと思うと基準が必要になり、その基準はその枠内以外にしておかないと、判断がおかしくなることがよくあります。 「いわゆる高級!」というタイトルですが、引用にもあるように高級があるからには低級などという概念が

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申し分のない相手を望む

申し分のない相手を望むということで、「理想の相手」について触れていきましょう。「本当に理想的なパートナー」というものを思い浮かべる時、どんな人を思い浮かべるでしょうか? 思う存分わがままに設定したとして、もう一度その設定を振り返ってみてください。 おそらく、どこかしら抵抗があるのではないでしょうか? 例えば、相手は金持ちの方がいいということを思っていた場合でも、気持ちの奥底では「金持ちの家の風習についていけないかもしれない」とか「不動産収入があるのはいいけど、何だかんだで自分のために外で頑張ってくれている姿を見たい

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正しく評価されることが珍しい人

多くの者は、何かある方向にひどく不正なことをすることなしには、よいこと、偉大なことに熱中することができない。これは彼の持ち前の道徳である。 曙光 404 偉人と言われるような人、偉業を成し遂げた人、そうした人たちは概してマイノリティです。 育った環境が特殊なものであるというような原因は、あまり関係なく、ひとまず変な人だらけです。 勤め人をしようと思っても、人格に問題があると烙印を押されるような人ばかりでしょう。 しかしながら、以前に何処かで何度か触れていますが、マイノリティだからと言って、そのまま「すごい人」である

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by bossu

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