Our love and peace

昔、新京極通りに「わぁ!」とピースマークの飾り物をいきなり見せてきて人を驚かせることを生きがいにしているおじさんがいました。

Bボーイみたいな人にそれをして、「心臓止まるかと思ったやろこら!」と胸ぐらを掴まれていました。

最近は全く出没しないそうです。

平和というのは、どういう状態のことをいうのでしょうか。

ともすれば、社会的目線で考えてしまいがちですが、結局個人の集合体が社会です。

愛にあふれるようになると、自然と喧嘩も起こらないのではないでしょうか。

唯物論が好きな人は、社会学的に物事を見ます。

しかしはっきり言うと、唯物論的目線で社会学的に捉えた時には正解であっても、そもそも唯物論自体は穴だらけです。

ある哲学者は、人を機械的に見ることを行ってみました。

それのおかげで、医学は進歩したと言われる場合もありますが、哲学的には次元の低い話です。

「感情は脳内でこのような働きのもと起こる」

と言うまではいいですが、なぜその働きをすれば「気持ちを感じる」のか、というところまでは説明しきれていません。

「こういう受容体がこういう物質を受け取るので」

と、いったところで、それによって感じている主体はなんなのでしょうか。

全然説明になっていません。

研究としては無駄とは言いませんが、全ては物質の状態と言い切るには説得材料に欠けると思います。

また、そこを宗教によって埋めるのも変な話です。

すべてのことに答えを求めすぎてしまうのが、義務教育の成れの果てでしょう。

「わからなくてもいいんじゃないですか」

それくらい肩の力を抜きましょう。

歴史に学ぶ

そういう人が大好きなのが歴史です。

社会的現象の分析が大好きなので、過去の事例を社会学的に分析します。

「考え」というものは、確かに過去にたくさんの人間がいろんなことを考えていたとすれば、もう「オリジナル」を捻出することは不可能でしょう。

そういう意味で、考えに困ったときには、先人の「考え」を知ってみることはいいことかもしれませんが、歴史的な事実とされることをいくら知ったところで、会社の休憩時間の雑談くらいにしか使えません。

ともすれば、先輩後輩が大好きな体育会系は、「先人の方がすごい」ということを主張してしまいます。

よくわかりません。

歴史から学んでいたら

同じような過ちは起こりえません。

結局、「ツボではないところ」ばっかり学んでいるのでしょう。

「他人をコントロールする」

この手法ばかり勉強しています。

なぜコントロールしたがるかの原因を探ることはしません。

それは当然のことだと思っています。

そこを今一度、考えてみるのも面白いのではないでしょうか。

手法

何かを手に入れたくて、手法を学んだとしましょう。

その手法を用いて何かを達成しようとします。

その達成状態自体がいらなくなったらどうなりますか。

例えてお話してみましょう。

ある宗教にハマった人がいました。

教祖に近づきたくて、教祖の本を沢山読みます。

そして、位が高くなって、喜んでいるとあるときハッと気づきます。

「あ、これ違うわ」

そんな時ものすごく恥ずかしくなります。

いままで重要だと思っていたことがすべて自分を苦しめる材料にしかなりません。

それまでのプロセスは、ある意味で必要だったのかもしれませんが、気づいてしまえばもうお荷物です。

「次期教祖のポスト」とされようが、もうそんなものはお金をもらってもいりません。

あるファッションが流行ったとしましょう。

流行にのっていると思われたくて、アルバイトをして、お金ができたとき、その専門店に行きます。

そうして、一式揃えて街に出て、肩で風を切って歩いてみます。

そこで、同級生の中のファッションリーダーに出くわします。

「お前まだそんな一昔前のカッコしてんの?」

そういわれて歯ぎしりをします。

帰りの電車ですら、周りの目が気になっていてもたってもいられません。

ようやく家に着くと、せっかく追い求めたはずの「流行りだった服」を脱ぎ捨てます。

 


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