カテゴリー別アーカイブ: miscellaneous notes 雑記

miscellaneous notes 雑記

反省と少しの勇気と決意

小説や楽曲、映画、アニメ等々においても、なんだかんだで好きな物語には特徴があります。 それは「今の自分よりも立派な人間になろう」というような反省と、そうなるべく起こる少しの勇気や決断、決意が含まれているようなものです。 ドラえもんの中でもたまにあるような感じですし、藤子・F・不二雄氏は「のび太にはひとつだけいいところがあります。それはたまに反省して立派な人間になろうと思ったりするところです」と言ったような感じで示されたりしています。それと同じような要素があるものを僕は好む傾向にあります。 というわけで、児童文学に分

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カルトの定義

カルト(cult)とは、もともと熱狂的な崇拝を意味し、一種の原理や哲学に基づいた儀式、行動様式などを意味するような言葉になりますが、現代では反社会的な破壊的カルト集団を指す場合に用いられたりします。 カルトの定義としては、次のようなものになります。 精神の安定のために、絶対性を持たない原理に執著し、原理やそれと関連する人物、概念を熱狂的に崇拝すること。ならびにその崇拝対象がもたらす空間、組織。 熱狂的崇拝によって精神の安定を図るため、その主義、思想、哲学に沿わないものに対しては排他的になり、時に攻撃対象とすること。

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蹴球唾吐

1994投稿目ということで1994年…エキサイトステージ94…先日の強制終了…ということで、サッカーの思い出について触れていきましょう。 1993年から1994年頃といえば空前のJリーグ、サッカーブームの到来というような感じであり、当時小学校中学年だった僕の学校でもサッカーが流行しました。友人と「Jリーグ エキサイトステージ’94」を楽しんだり、サッカー遊びのようなことをするような感じになったりしました。 昔からスポーツチームのファンになるにあたって、何を根拠にファンになっていくのかがよくわからず、当時

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顔の締まりとランラン光線

最近聞いた話ですが、推しの文化により、関連したものによって自分を表現しようというか、話の取っ掛かりを作って誰かに絡んでもらおう、できればモテようとするような雰囲気があるようです。 しかしながらそんなことでいくら取り繕おうが、本来、顔だけで人格はバレてしまうので、深い部分ではあまり意味がないのではないか、深い仲になったりする点においては、それほど有効ではないのではないか、と思ったりします。 また、服装がもっさいわけではなく、実は顔が…ということが言われたりすることもあります。意外と同じ服を同じようなサイズ感で顔が締ま

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静止することにより見えるもの

日常から離れ、静止することによって見えるものがあります。それは特に非日常的な体験というものではなく、独りの空間をある程度保って静止するといったようなものです。そうすると行きたい方向が見えてくる場合があります。 例えば、「少し休みを取ったとしても、特にやることがないからなぁ」と思ったりして、あまり一人で独立した空間を持つことを意図しないというようなことがあります。 「周りとの関係を調整してまで、わざわざ休みを取らなくても良い。そうした間を設けるにあたって、周りに色々と言って回る方が面倒だ」というような感じです。 しか

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あほぼんの象徴

基本的にダンスというものに寒気を覚えるものの、一部例外があり、エアロビ笑点やタイムスリップショッピングダンスなどは、「あほぼんの象徴」として、別口で感性をくすぐるものとなっています。 エアロビクス的な動きや音楽は、80年代を思わせる雰囲気と相まって、僕にとっては爆笑の対象となったりするわけです。 その根底に流れているものは、やはり資本主義経済、シロナガスチ○ポ的な「あほぼんの象徴」であるからこそ、という感じがします。 すなわちそれは、彼らお得意の略奪や資本主義的合理化の果てにあるものは、「暇でやることがなく、エアロ

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ちょっとした想像力と抑止力

先日、銭湯に行った時のことです。兄弟数人の子連れが一組いて、そこそこ騒がしかったのですが、一番騒がしいのは父親と思しき大人でした。「わー」などとい言いながら、湯船に飛び込むくらいの感じです。 まあ奇声さえあげなければいい、と思いつつ、おそらくイクメンなどという言葉に踊らされ、妻や子どもの言いなりになって自分を保てなくなり、結果、「自分の精神の方を子どもに合わせないと発狂してしまう」というような状態なのでしょう、というようなことを思っていると… 倶利伽羅紋紋さんがやってきました。 倶利伽羅紋紋さんは湯船の中にいた僕の

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胸の痛みが消えてなくなる感覚

どうも体の部分部分に秘めた痛みというものは、その痛みを受けた時の記憶等々と連動していたりします。 また、緊張の種類によって体としても緊張が走る場所が異なるため、ある部分の痛みや疲れは、それに応じた緊張のエピソードと連動していたりするようです。 先日、夜に眠れなくなり、いつもなら春先に起こるような緊張の解放が一気に起こりました。もしかすると「相手の空間に飲み込まれると調子を崩す」等々を投稿した影響かもしれません。 胸の真ん中にグーッと圧迫感が走り、痛みが走りました。 そして、記憶が急激に描写され、一気に涙が溢れてしま

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相手の空間に飲み込まれると調子を崩す

相手の空間に飲み込まれると調子を崩す、ということで、少しだけ「人との深い関わり」の続編を進めていきましょう。 振り返ると「調子が悪いなぁ」とか「何をやってもうまくいかない」という時、たいていは誰かの空間に飲み込まれていて、自分本来の思いや意図からは外れていた時、という感じなっています。 相手の提案に乗ってみるということはいいですが、行き過ぎるとどんどんツキがまわってこないというような感じになっていきます。 「あ、終わった」と思った瞬間 「起業してから廃業して大企業に新卒で就職することはできないが、反対に大企業に新卒

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人との深い関わり

思えば幼少期から人と深い関わりを持つことが多いなぁというようなことを思ったりします。しかし最近ではほとんどそんな深い関わりが生じることがありません。 人と深く関わって良かったこともあれば、さんざんだったということもあります。 さんざんだったことも数多くありますが、それなりに良い経験になっているので、振り返れば「良かった」というようなことも思います。 人と深く関わってしまう理由 なぜそんなに人と深く関わってしまうのかという点ですが、ひとつは「なるべく友だちになろうとする気質があること」であり、一つは、「人の深い部分を

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絵本に見る異性の生き方の感覚

数あるビアトリクス・ポター氏のおはなしの中で、個人的に最も好きなのが「こぶたのピグリン・ブランドのおはなし」です。 「うさぎの絵について」でピーターラビットシリーズのうさぎを推しておきながら、一番好きなのは「こぶた」というのは矛盾のようですが致し方ありません(亥年生まれであるからということにしておきましょう)。 最後の絵でピグリン・ブランドとピグウィグがダンスをするというのが最高です。その前にピグウィグが踊っている絵があってこそという感じですが、白黒であるのに色彩豊かに見えてしまいます。 最近ビアトリクス・ポター氏

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1983

1983投稿目ということで、1983年について、というより相当幼い幼少期の頃について触れていきましょう。 僕は1983年(昭和58年)に生まれました。 といっても12月生まれなので、1983年を過ごした期間はほぼわずかで、新生児の頃という感じになります。 そういえば僕の銭湯歴は相当長く、生後一ヶ月で銭湯デビューという感じだったようです。 家に風呂があったらしいのですが、おばあちゃんが風水か何かの入れ知恵に影響され「縁起が悪い」と言ってぶち壊し、一家全員で近くの銭湯に通う習慣がついていたという背景があったようです。

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「しないこと」への評価

11月は児童虐待防止推進月間ということのようです。個人的には児童愛護の方が表現としては良いのではないかと思ったりもしますが、直接的に虐待というものを防ぐということを意図しているので致し方ないのかもしれません。 個人的には「虐待をしないこと」への評価があまりにも意識されなさすぎているような気がします。 以前、「際限のない『何をどこまで』を防ぐ表現」で「不貪不瞋不痴」について少し触れましたが、「しないこと」への評価ということで、再度「不瞋(ふじん)」を評価することについて触れてみましょう。 とその前に、虐待の疑いがあっ

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空想による発火

ぼんやりと月を観たりしている時などによく空想による発火が起こったりします。 離人感を伴うような感じですが、心地よさを伴います。 情報空間が広がり、四次元的な移動もできるような感覚です。 それはぼーっとしている時、突然起こります。 手というものに関する無限にも近い空想 例えばですが、月に手をかざした時、手というものと手を動かすということについて、無限にも近い空想が広がっていきます。 当たり前のように手を動かしていますが、進化論が正しいとすれば、手が無い生き物だった頃の遠い先祖が、手というものを出してみようと思った意図

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合意と根拠

インターネットメディアが普及してからというもの、やたらと根拠・データを示せば相手は納得すると言うか、言い返せなくなるというような雰囲気が出てきたりしましたが、「そんなことを根拠にして説得すると不利ですよ」と言いたくなってしまうこともよくあります。 何度も触れていますが、とりわけ相関関係は絶対性を持ちませんし、傾向くらいしかわからないのです。傾向から仮説を立てるくらいにしか使えないというのが本当のところです。 誰かが「因果関係を知らなくても、相関関係を知ればそれで良い」などということを流行らせましたが、それはマーケテ

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情報的な大きさと「悲」の反応

情報的な大きさと「悲」の反応について触れていきましょう。 定義を示す順が逆になりますが、ここで言う「悲」とは、パーリ語のkaruṇā(カルナー)であり、慈悲の「悲」を意味します。「苦しみがあるのであればそれが取り除かれるように」というような思いです。 情報的な大きさというのは、いわゆるひとつの気の大きさであり、ある意味でのレベルの高さ、一種の余裕というような感じになります。 そんな情報的な大きさが大きいものに小さいものが吸い寄せられます。 小さいものが「余裕」を吸収しようとやってきますが、あまりに大きいと吸収される

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合意と具象

相手の合意を必要とする場合、抽象的なことであっても具象化せざるを得ないという場合があります。 様々なことをわかりやすく伝えたいというのはやまやまですが、そんなふうにどうしても相手の合意というものが要るとなれば、本質とは少しズレたところで示さざるを得なくなります。 しかしながら、抽象的なまま語られると譫言のようにしか感じざるを得ない場合もあります。正しいのですが、時にカルト的になってしまうというような感じです。 相手の納得を得るということになれば、相手のレベルにある程度合わさざるを得ません。ただ、そうして落とした抽象

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笑いは印象の正負を逆転させる

笑いの素晴らしい点のひとつとして、「印象の正負を逆転させる」という点があります。その質にもよりますが、感情が激しく動く出来事というものは、解釈しだいで悲しみや怒りといったものにもなりますし爆笑の対象にもなりえます。 本来出来事というものは、それそのものは中性です。 ストレス耐性という言葉がありますが、耐えるということだけがその乗り越え方ではありません。笑いに昇華する能力が高まれば、印象の正負を逆転し、耐える必要のないものに変化させることができるようにもなりえます。 笑いに昇華する能力 友人の一人に「離婚後、元妻側に

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限界を超えるための非合理性

「自分の限界を超える」 そんなことを意図することが結構ありますが、実際に限界を超えるためには合理性が生み出す柵を突破する「非合理性」が必要になります。 物事が合理的になっていけば行くほど、通常その概念のごとく理に適ったように物事が進んでいくと考えられますが、その一方で行動も情報も内部循環する形となり、鬱屈した精神を生み出していったりもします。 現状の中で「合理的に最適化」 「自分に最適」ということは、今の自分の内側、その後の自分から見れば「まだまだ小さい」とも言える「器」の中で最適というだけであって、その中でいかに

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静かなる気迫

19歳くらいの病中の頃、おばあちゃんの家で2ヶ月ほど暮らしたことがあります。 特に実家が嫌だったとかそうした理由ではありません。 嫌ではないのですが、少し気が散るというか、そのままでは同じところをぐるぐるしているだけのような気がしたので、何かを見つけるために静かな場所で強い人と一緒にいたかったというような感じです。 理解者で触れたおばあさんとの出会いの後、僕は、すべてを解決するものではないにしろ、何かをまとめ、何かを見つけるために周りの中で最も精神が優れ、そして安定した寡黙なおばあちゃんの家で暮らすことにしました。

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オスのセキセイインコが持つポジティブさ

オスのセキセイインコは異常なほどのポジティブさを持っています。ポジティブと言うより、根底から「ネガティブがない」というような印象があります。 鉄腕アトムには基本的に恐怖心がプログラミングされていないように、オスのセキセイインコにも恐怖心や悲しみといったものがほとんどないという感じになっています。もちろん個体差はあると思いますが、楽観主義やポジティブの塊とでも言いましょうか、パラメータの振り分け的に、喜びや友愛が強く、恐怖心や悲しみ、妬みや僻みはゼロに近いという感じの印象があります。 9月20日~26日は動物愛護週間

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執著の抑制というよりも解放

見渡してみるとたくさんの物が周りにあります。 空観的な見方をすると「世界には自分しかいない」というようなことも成り立つ中、それらの物の属性を考えてみると、全てが「お役に立てれば幸いです」ということでその場にいると言うような感じになっています。 「もうお役には立てません」 しかしながら役割を終えたとでも言うべきか「もうお役には立てません」という状況にあるものもあります。 例えば若い時に入社して、その後ご高齢になったスタッフの方がいたとしましょう。その方に対して、ボロボロの御老体に鞭を打ったり、また、役割がないのにその

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大いなる自己肯定

厳密には「大いなる自己肯定」の肯定の対象は自己ではないのですが、それ以外に近い言葉がないので致し方なく自己と表記した上で、大いなる自己肯定について触れていきます。 端的には「~から」という理由づけのない、根拠のない自己肯定のようなものです。 自己中心的な視点からのスタートし、より全体へと視点が広がり、また逆流し、最終的には自己に収束していくような「意識や精神レベルの変遷」と「自己肯定感というようなものとはまた違った大いなる自己肯定」について触れていきます。 ― 「名とすべて」「虚しさの先にある安穏」の時と同様に雑記

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14歳

比較的最近のことですが、千原ジュニア氏の14歳を再読しました。 小学生の時にすんげー!Best10で千原ジュニア氏を初めて見た時、「この人は他の人とは違う」ということを思い、そして「何かが自分と似ている。きっと僕はこの人のようになる」というようなことを率直に思いました。 僕は部屋に閉じこもることはなかったですが、14歳を読み返すと、怒りの強さを筆頭に「やっぱりどこか似ているなぁ」というようなことを思ったりしました。 ― 世の中では昔からいじめのようなものが常に問題視されています。 それをどう定義するかというところの

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英気を養う夏

毎年のように夏の暑い時期は「英気を養う期間」ということにしています。 ただ、ここしばらくは特に外出もせず、爆睡ツアーに旅立つということもなかったので、代わりと言ってはなんですが、マイナス要因の削ぎ落としに取り組むことにしました。 肩こりが無かった小学生時代の感覚を取り戻すために、できるだけ徹底的にコリをほぐしてやろうと思いました。 肩・首を徹底的に矯正 肩というよりも手首や腕、胸側の縮みが原因のようだったので、事あるたびに伸ばしたりほぐしたりするようにしています。特に胸側の筋膜を意識しています。 普通は少し体が楽に

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