カテゴリー別アーカイブ: 曙光(ニーチェ)

曙光(ニーチェ)

精神に対する誇り

「誇り」というものは、勝手に内側にとどめておくか、第三者への賞賛の場合に使うようなものです。この言葉の使い方を間違えれば、誇りはただの優越感であり、高慢であり、後ろめたさへの自己説得になってしまいます。 これが私の生きる道 昔、学校で渡された「これが私の生きる道」といった類の短い文集的なものに次のようなことが記されていました。この文集は全員の分が記載されているわけではなく、一応公募みたいなものです。選考があって、通過した人の文だけが記載されるような類です。 「アフリカ系アメリカ人として誇りに満ちた生活」 こういうこ

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徳としての高尚な残酷さ

優越への衝動に全く依存している道徳がここにある。― それをあまり立派だと考えてはならない。 ― まさしく彼が自分の残酷さをぶちまげてやりたいと思うある人々がいる。そこに偉大な芸術家がいる。彼が偉大になるまでは、征服される競争者の嫉妬心を痛切に感じる快楽が、彼の力を眠らせなかったのだ。― 偉大になるために、彼は他の人々にどんなに多くつらい瞬間を支払わせたことだろう!修道女の純潔。彼女は何という非難のこもった眼差しで、違った生活の女性を真面(まとも)に見ることだろう!この眼差しには何と多くの復讐の快感があることだろう!

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徳の俳優と罪の俳優

演劇などを見せられると、感動するどころか「寒気」がしてしまいます。特に売れない劇団がなにか地域の催し物で無償で舞台などをしていると、本当に鳥肌が立ちます。 「見ているこちらが恥ずかしい」という類のものですが、その寒さをどこまで究極的に楽しんでしまうか、というのが以前ひとつのテーマでした。 「排除」を排除する 排除したいという気持ちは「怒り」ということになっているようですが、怒りを感じずに、つまり「目の前から排除したいという気持ち」をいかに消してしまうか、これにはただの現象として捉える以外にも解釈を変えるということが

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論拠としての気分

昔までは、約束の時間に1分でも遅刻する人を嫌っていました。 完璧主義というわけではないのですが、そういう人がどういう神経をしているのかわかりませんでした。そして、盗人にも三分の理ということで、どういうことか真剣に考えたことがあります。 すると訳を聞くと「楽しみに来ているのに、そういう細かいことを言われると気分が台無しになる」というものでした。 また、「仕事や遊びの局面で、最高のパフォーマンスを出したい」というものでした。 これらの「盗人にも三分の理」を真剣に考えた結果、相手の多少の誤差は気にならなくなりましたが、や

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超人的な情熱に対する信仰のもつ価値

―突然で一度だけの約束から永遠の義務を調達した、制度や風習のことを考えるがよい。そのたびごとに、そのような改造によって極めて多くの欺瞞と嘘が生まれた。また、そのたびごとに、しかもこのような犠牲をはらって、新しい超人的な、人間を高める概念が生まれた。 曙光 27 嘘をつかねばならなくなるなら、原則的に約束はしてはいけません。 ただ、約束をした時点ではわからなかったことが追々わかってくることがあります。その時に約束を守ることを重点に置いてしまうと、ウソをつかなければならなくなります。 感情は絶対に約束できない 約束とい

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動物と道徳

拝金主義というのはどこまでも拝金主義に徹していきます。だからこそ一部の動物を「経済動物」という呼び方をしたりします。 つまり「儲かればいい」であり、「儲けもできない上に、金がかかるなら殺す」です。 競馬を美化するな 顕著なのは競馬ですね。体格的にあまり走れなさそうな馬は、人間で言えば十代かそれに満たない頃に殺されます。参加賞をもらうためにガリガリになるまで競争させられたりもするようです。 あれは夢でも何でもありません。 どういう気持ちでその職業をしているのか? そういう業界にいる人はどういう気持ちでその職業をしてい

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風習と美

握手というものは、万国共通だということを聞きますが、ネパールで友人のお兄さんに初めて会った時に、右手で握手して、さらにいつもの癖で左手を添えると怪訝な顔をされました。 一応あの文化圏では、左手は不浄の手とされていて、トイレに行った時でもトイレットペーパーなどを使わずに、原則左手で洗うようですから、確かに怪訝な顔をされるのはわかるような話ですが、怪訝な顔をしてしまうくらいなら、そんなこだわりというか風習はやめたほうがいいのではないでしょうか。 嫌な気分発動条件 それは文化の押しつけでもなんでもなくて、左手を当てられる

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命令の証明

一般にある命令 ―の良し悪しは ―それが厳密に実行されたとして、その命令の中で約束された結果が生じるか、生じないかによって証明される。 道徳的な命令の場合は― ほかならぬ結果が見通されえないものであり、あるいは解釈しうるものであり、曖昧である― この命令は、全く学問的価値に乏しい仮説に依存しており、この仮説の証明と反駁とは、結果からでは、根本的に同様に不可能である。 曙光 24 抜粋 毎日何かに拝んでいて、しばらくして病気が治った、と。 しかしながら病気が治ったことを根拠に「拝んだから治った」といっても何の証明にな

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われわれのどこが最も精巧であるか

自律訓練法というものをやったことのある人は経験があると思いますが、思うだけで本当に手が温かくなったりします。そう感じるだけでなく本当に温かくなるのだから、錯覚でも何でもありません。 自律訓練法は、右手が重いと意識するだけで本当に重く感じてくる、右手が温かいと意識すれば、右手が本当に温かく感じられ、実際に体温も上がったりするというようなものです。それを両手両足でやったり、「頭が涼しい」というような感じで進めていくものです。詳しいやり方は調べればすぐに見つかると思います。 自分の意図した時間に起きる それをさらに進める

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仕事と信仰

依然として新教徒の教師たちによって、一切はただ信仰次第であり、仕事は信仰から必然的に出てくるはずであるというあの根本的な誤謬が植え付けられている。 曙光 22 仕事と信仰ということで、信念として持っていることや信仰として持っていること、そして話していることなどと仕事内容に矛盾があるケースについて思うことがありますので、そんな感じで書いていきます。 行動との矛盾 昔からよく思うことがあります。仏教でもなんでもいいのですが、その教義を説くわりに、「それならばこの人はどうやって糧を得ているんだろう」と思うことがあります。

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法の履行

本来的に罰則規定のない努力義務規定というものは、民事的な賠償問題に発展した時に加味されるようなもので、特に「白い靴下しか履いてはいけない」というような義務教育の「校則」というものは、何の拘束力もないようなことです。 一応相談室に呼び出して、拘束し、指導することが「正当」になる根拠として置かれていますが、その「校則」自体の正当性はどこにもありません。 私立の学校なら、私立の学校法人が教育というサービスを提供するにあたり、その利用規約として定めている、というようなこともまかり通りますが、公立の中学校などではそれは理屈が

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自由行為家と自由思想家

肩書きに「自由人」というふうに書く人は、あまり好感が持てません。そんなことは他人に主張するようなことではないからです。 あくまで相対的に見て、「サラリーマンのように社畜にはなってないぞ」というような比較から生まれる思想ですが、寒くなったら服を着なければ寒く感じて苦しい、そしてそのままだと凍えて死んでしまう、ということは体にある程度の自由は奪われているはずです。 100%オリジナル たまに「自由表現者」というような事を主張するような自称アーティストがいますが、本気の自由とは、少し違うような気がします。 たとえば自分が

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倫理と愚化

風習とは、利益になるあるいは害になると思われるものについての、昔の人間の経験を代表する。 ― しかし風習のための感情(倫理)は、ある経験そのものに関係しないで、風習の古さ、神聖さ、明白さに関係する。そしてこれによってその感情は、人が新しい経験を重ね、風習を修正することに反対の働きをする。 ― 倫理は人を愚化する。 曙光 19 株式会社は利潤の追求を目指しますが、利潤が最大化するように働かせるために組織化し、階層化したりします。 その組織化・階層化の最大の目的はあちらこちらで個性を出されるより、ある安定的な手法、明確

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自発的な意志による苦悩の道徳

友人が自発的に「新興宗教に入った」と告白してきたことがあります。 実はそれは後に告白されたというより、その宗教団体に属しているということを先に知ってから、友達になったのですが、僕はご周知の通り宗教には絡んでいません。宗教ではないというような団体にも属していません。 何かの団体に入ったり、団体を形成して群れたいと思いません。そういうことはライングループで盛り上がって「絆」が大好きな人がやることだと思っています。 ただ、宗教に絡んでいるからといって、すぐさま拒絶することはありません。宗教関連の話題以外なら特に問題ないわ

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よい自然と悪い自然

自然か人混みかの二択なら、断然自然によく行きますが、三流のコンサルですら何かの本で読んで知っているように、自然を見て「いいなぁ」と思える原因としては、「視界が開ける」ということが一つのポイントになります。 これを何処かでサービスとして味わおうとすると、ただ単に視界が開ける、ということを味わうがために料金は数倍になったりしますが、それでも需要があるということは、それだけ不自然な状態の中にいつもいるということでしょうか。 空間の認識として 自然の中で、どこまでも視界が開けているように見えても最後は霞んでたいてい白みたい

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文明の最初の命題

野蛮な民族にあっては、― 一種の風習がある。 綿密すぎる、そして根本において余計な規定がある。 余計な規定はこの世の中にたくさんあります。 「それがみんなのためになる」とか、「地球温暖化防止のため」など、なんでも理由をつければ相手は従うだろう、というようなもので、自分の都合だということは隠しながらそれが文明だと主張し、相手への服従の強制とは表立っては言いません。 この風習、文明、そして余計な規定を作る側も問題ですが、それよりも問題なのは、そういうものの後押しがあると、ここぞとばかりに強気になるようなB層です。 規定

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最も古い慰めの手段

人が慰めを欲する時は、自尊心が欠落した時です。自尊心の欠落は本能的恐怖心が社会的フィルターにかけられた時に顔を出してきます。 世の中には、自尊心の欠落を食い止める、もしくはその充足に関する提言で溢れていますが、自尊心自体が虚像であり、それに関する解明解決策は、アイツの内で踊っているだけです。 気質によって「欲」と出たり「怒り」と出たり 自尊心が欠落し、慰めが必要だと感じたとき、欲と怒りのうち、欲が強い人は他人に憐れみを乞い、怒りの強い人は、他人に罵声を浴びせたりします。 欲と怒りは、同じような性質を持ちつつも、ある

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道徳の歴史における狂気の意義

狂気という言葉は、「みんながやっていないことをやっている」という意味で、常識はずれの範疇にあります。 その常識はずれの中でも自分に害がありそうなものは狂気になり、自分の利益になりそうというようなことは偉業などと言われたりします。 無害というかほとんど自分とは関係なさそうならば、印象は「変な人」くらいのものです。 「危害がない」と「正気」は関連しない 道徳というものに採用される時に、根拠はよくわからないものの「まあいいか、特に悪いことではない」というようなことが基準になります。 そしてその道徳にかなっていればそれでよ

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人類の新しい教育のために

たまに掲示板みたいなところに標語が貼ってあったりします。 標語を集めて意識を高めようというのは義務教育と公務員の発想ですが、実際に選考に関わる審査員はやっぱりギムキョなので、何が問題かということに気づいていないことがよくあります。 たとえばこのような標語ですが、まず「君なんだ」ということで、どうして他力本願なのか、という疑問が残ります。 つまり、「あなたはしないんですね」というようなツッコミが入ることを想定していません。 逆に「僕なんだ」とか「私なんだ」、とか言うのも、他力本願ではないものの、少し傲慢なような気がし

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付加物としての結果

昔、人々は、行為の結果ではなくて、自由な付加物―つまり神の付加物であると信じた。これよりも大きな混乱が考えうるであろうか! 曙光 第一書 12 行為の結果ではなくて、それが「もたらされた」というような勘違いですが、どうしてそのようになるかというと、アイツにはその因果関係が理解不能だからです。 それよりも少し小さい混乱としては義務教育の混乱があります。 「みんなで頑張ったんだから成功したんだ」というようなものです。 絶対にない「失敗」 どうせ文化祭などは、まず準備の段階で「成功させよう」と掲げられ、それがかなり寒いよ

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民間道徳と民間療法

民間道徳であっても、それが心をきれいにするようなことであれば、基本的には問題ありません。基本的には問題がないのですが、それを条件化してしまうので、最後の壁で結局逆戻りしてしまうことがあります。 たとえば、苦しんでいるような人を民間療法で苦しみを一時的に解除することはいいですが、その民間療法を条件にしてしまうとそれに捉われていきます。 占い師 占い師に「あなたは大丈夫」と言ってもらって、ひとまず騒ぐ心が落ち着くのは結構ですが、その結果感情から占い師に依存したりします。つまり占い師無しでは大丈夫ではいられなくなるという

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倫理の感覚と因果関係の感覚との相互運動

ニーチェはまさに曙光のこの項目で、核心に迫るようなことを言っています。 「必然的な作用を把握する」、つまりあるがままの因果関係だけ把握できれば、アイツの特性である、空想的な因果関係が破壊されるということについて触れています。 空想的な因果関係を観察する 「空想的な因果関係」とは先に触れたような風習によってもたらされる倫理的規定からもたらされる妄想であり、アイツの得意とする「関連思考」に無意識的な信念まで組み込まれてしまっているような状態です。 つまり、迷信のようなことです。現象は、ただそれだけの現象であるにもかかわ

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風習の倫理の概念

倫理とは、いかなる種類の風習であるにせよ、風習に対する服従より何ものでもない―。 風習とはしかし行為と評価の慣習的な方式である。慣習の命令が全くない事物には、倫理も全くない。 さて、風習とはいったいどのようなものでしょうか。 義務教育でも「宗教的なことはやはり憲法に違反するので、やめておこう」という思想がありますが、「これは風習であって宗教ではない」という霞ヶ関・永田町スタイルで、結局宗教的なことを風習や文化だと解釈して倫理を定義していきます。 合掌を拒否 僕は昔から合掌を拒否してきました。「いただきます」だけなら

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変容

ずっと変わらないものというものはありません。「常に変化している」と知りつつも、それを思い浮かべるとき油断していると「この街もずいぶん変わったなぁ」というような感想を持つのがせいぜいです。そういうことではなく、一瞬一瞬で捉えきれないほどのスピードで全てが変化しています。いわゆる諸行無常です。 変化を認識するために 「変化している」というのはある意味で、印象であって、時間という「軸」の解釈をする機能を持ったものがない限り、変化を認識することはできません。 世の中には「魂だけは不変である」とか言う人がいますが、その魂が不

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空間感情の学び直し

たしかなことは、最高の幸福と最低の不幸の間の空間の広さは、想像された物の助けを借りてはじめて作り出されたということである。 最高の幸福を自己啓発ウェーイは「最幸」と書きます。それだけで新興宗教のような胡散臭さが拭えません。たしかなことは、最高の幸福は、群れてウェーイすることではありません。 幸福と不幸の間に空間があって、その間には多様な感情があるというように定義されそうですが、不幸な状態というのは、引用のとおり「想像された物の助け」によって生み出されています。 教養 「教養」という言葉がありますが、一般的に教養とは

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