カテゴリー別アーカイブ: 曙光(ニーチェ)

やはり英雄的

われわれがほとんどあえて口にしないほどいたって評判が悪いけれども、有益であって必要であることは行うこと。―これもやはり英雄的である。ギリシア人は、ヘラクレスの大きな仕事の中に厠の掃除を入れることを恥としなかった。 曙光 430 「やはり英雄的」ということですが、なぜか二十歳くらいから、英雄ならば「ひでお」、正義なら「まさよし」、勝利なら「かつとし」と読んでしまう癖がついてしまいました。 引用にある大きな仕事は、ヘラクレスがヘラによって狂気にされて妻子を殺した罰としての十二年間十二難題であり、そのうちの一つが家畜小屋

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生贄の道徳

諸君は感激して献身し、自分を犠牲にすることによって、神であれ、人間であれ、自分を捧げている力強いものと今や一体であるというあの考えの陶酔を享受する 曙光 215 一部抜粋 世間の宗教のみならず、国家であれ大企業であれ、大企業ではないものの老舗であったり、有名なブランド力のある企業などに勤めると、意識しないままにこういった陶酔に酔うことがあるでしょう。「自分を捧げている力強いものと今や一体である」という陶酔です。 主義や組織との同化による陶酔とでも表現するべきか、宗教への狂信というものだけでなく、組織としての国家への

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不遜ゆえの悪

無駄に遜ることも、とどのつまりは「慢」であり、何かに上下、同列を考えてのことです。上下を意識することのみならず、同じだと考えることも結局は何かの基準をもって選び分けているのですから。もういう判別はもう手放したほうがいいでしょう。特に人に主張しても結局は「だからどうした」です。 不遜ゆえの悪ということで遜ることと「図々しいため相手が先に折れる」ということについてでも触れていきます。 不遜(ふそん)とはもちろん遜(へりくだ)らないことを意味しますが、単に理性を持ちながらそれを手放せるのと、根本から理性がなく、感情の暴走

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見せかけの利己主義

大人数の人々は、彼らがその「利己主義」について何を考え、何を言おうとも、それにもかかわらず、一生涯自分たちの自我のためになることは何も行わずに、彼らの周囲の人々の頭の中で彼らに関して形作られ、そして彼らに伝えられた自我の幻影のためになることだけしか行わない。―その結果彼らはすべて一緒に、非個人的な意見や半個人的な意見、勝手な、いわば文学的な評価の霧の中で暮らしている。あるものは、いつも他者の頭の中で、この頭はまた他の人の頭の中で、というようにして暮らしている。奇妙な幻影の世界であり、それは同時に非常に冷静な外見を呈

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新しい情熱

われわれの持つ認識への衝動があまりに強いために、われわれはまだ認識ぬきの幸福を、あるいは、強い確固とした妄想の持っている幸福を評価することができないのである。 曙光 429 一部抜粋 ニーチェには残念ですが「妄想の持っている云々」は余計でしたね。彼はアンチクリストへの衝動が強すぎて、それを糾弾することに意識が向いていました。キリスト教(キリスト教会)前提の考えをやめようとする試み、その方向性はいいですが、取り外せたのなら、それ自体は最終的には手放して考えねばなりません。 ただ、主張というものは人への説得ですから、そ

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何という寛大さ!

寛大さの「寛」は菊池寛(きくちかん)氏の寛ですが、菊池寛氏は「ひろし」と呼ばれても、特に気にしなかったそうです。しかし、菊池を菊地と書かれた時は「君、字が違うぞ」と、少し気にされていたそうです。 今回はいつもとは少し違った感じに、菊池寛氏の寛大さについてでも触れていきましょう。 ということで、直木三十五氏の「貧乏一期、二期、三期」について触れていきます。 直木三十五 貧乏一期、二期、三期より 菊池寛に、救済されたのは、この時分だ。僕は、着たつきり、女房も同然、それでも、この貧乏の時、高利貸からこそ金は借りたが、一人

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われわれの評価

あらゆる行為は評価にさかのぼる。すべての評価は、自分自身のものか、受け入れられたものかである。後者のほうがはるかに大多数である。なぜわれわれはそれらを受け入れるのか?恐怖からである。つまりわれわれは、それらのものであるかのような態度をとることが得策だと考える。そしてこの考えに馴れる。したがってこの考えは結局われわれの本性になる。自分自身での評価。これはあるものが他人にではなくて、ほかならぬわれわれにどれほどの快または不快を与えるか、という点に関してそれを測定することをいう。 曙光 104 抜粋 ニーチェにしてみても

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消えた懐疑

古代人は― われわれと違って― 来るものに関してというよりもむしろ、現にあるものに関してはるかに懐疑的であった。 曙光 155 後半抜粋 「過去にとらわれずに」に続く言葉は「未来型思考でいこう」という場合が多いでしょう。またもや二元論化です。「ゆく年くる年」と聞いても、「え、今は?」とはならないでしょう。 現にあるものに懐疑的ということは、「?」の対象が未来ではなく今この場のあれこれに関して疑問を抱いていたということです。 未来は未来で今起こっている妄想ですから、それに懐疑的になっても、元が空振りで元が妄想ですから

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二種類の道徳学者

自然の法則をはじめて見ること、しかも全面的に見ること、それゆえ指示することは(例 略)、そのような法則を説明することとは何か違ったことであり、違った精神の持ち主の仕事である。同じように、人間の法則や習慣を見たり示したりするあの道徳学者たち― 耳や、鼻や、眼などが鋭敏な道徳学者たち― もまた、観察されたものを説明する道徳学者たちからあくまでも区別される。後者は何よりもまず発明の才がなければならず、また明察と知識とによる奔放な想像力を持たなければならない。 曙光 428 自然法則なら、まだかわいいものです。 その手法が

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危機に瀕した者の慰め

どれだけのことが起こっても、慰めというものは必要ありません。起こった現象はすぐに消えすでに記憶になっています。記憶によって自爆しているのだから、何か他のもので埋めようとする必要はありません。 急激な危機に瀕する時は必死で目の前に対応しているだけで勝手に終わります。終わらなくても何かの結果を残して終わります。終わらなくても死んで終わりです。結局終わります。 それよりももっと問題視されるのはジワジワした危機です。 危機に瀕した者の慰めの中で、最も登場しやすい「危機に瀕した者たちの慰め」としての弱者の絆について触れていき

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人生に失敗した人々

人生に失敗した人々ということで、人生の失敗について触れていきます。世間でもよく失敗という言葉が使われたりして、「人生に失敗した」とか「失敗続きの人生だ」とか言うようなことを嘆いたりする人がいます。 本来失敗の対義語である成功ですら曖昧な理由で生まれた「願望」の達成くらいの意味合いであるはずですが、世間では、成功とは経済的成功とかお金持ちになるとかそんな雰囲気で語られていたりもします。 自己啓発コンサルの視点から見れば成功とは金持ちになることであり、失敗とは貧困に喘いでしまうことになるのでしょうか。 そしてその「成功

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倫理の否定者には二種類ある

「倫理を否定する」― このことは第一に、人間の申し立てる倫理的な動機が実際に彼らを行為に駆り立てたのだ、ということの否定を意味しうる。 ― 第二に、それは倫理的な判断は真理にもとづく、ということの否定を意味しうる。ここで付け加えられるのは、倫理的な判断が実際に行為の動機であるということであり、しかしこの仕方で誤謬が、あらゆる倫理的な判断の理由として、人間を道徳的な行為へ駆り立てるということである。これが私の視点である。 曙光 103 抜粋 倫理の否定者には二種類ありそのうちひとつは、「人間の申し立てる倫理的な動機が

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起源と意義

起源を知り、それを前提として考えることはあまり勧められたものではありません。まさにその「起源」というものに依存し、その方向性からしか物事見れなくなります。ただ、進化するにつれて元々の意義を忘れすぎな局面も、現代では絶えません。 起源と意義ということで、そうした物事の「起源」をあまりに推し進めることは単なる文化の名を借りた意識的な結界であると思っています。 といっても、物事をよくよく見渡してみると、ほとんどの事が過去に出尽くしているというのは否めません。しかしだからといって、古人や起源が素晴らしいというのは、ナンセン

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学問の美化

「学問は醜悪で、乾燥し、味気なく、困難で、長たらしい―さあ!われわれにこれを美化させてくれ!」という感情から、哲学と呼ばれるものが再三再四発生する。 曙光 427 抜粋 学問を修得していけばその分野での行動は良い結果になる、というのは揺るぎなさそうに見えて、あまり関係がありません。 たくさん勉強することによって、目の前にあるものが見えにくくなっていくからです。ジャンル問わず勉強していけば、ほとんどすべての学問に共通する何かの学力だけはついていきます。しかしながら、専門性という偏りによって、目の前のことが見えにくくな

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思想家の盲目

思想家とは、思想を持ち、時に思想を説く人ですが、あくまで思想はただの思想で、それ以上ではありません。人を狂気に導く性質を持ちながら、問題は何も解決してくれないという性質を持っています。 思想家が思想を説いたりする奥には、たいていその思想が社会にインパクトを与え、その結果自分の都合が良くなるか、自分の中の何かが満たされるかといったものが潜んでいます。 つまり思想を介して、自らを高めよう、自らを幸せにしようというような試みが垣間見れます。 以前に少し触れましたが、思想を持って、何かの活動をして、その結果社会が動いたとし

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われわれ追放された神々

人類は、その由来や、その独自性や、その使命などに関する誤謬によって、さらにこれらの誤謬に基づいてなされた要求によって、意気が高く昂まり、再三再四「自分の腕前以上のことをして」きた。しかし同じ誤謬によって、名状しがたいほど多くの苦しみが、お互いの間の迫害が、中傷が、誤解が、また個人の内面や個人自体でのさらに多くの悲惨などが生まれた。人間はその結果、苦しむ生物になった。 ―(中略) 「苦しむ高慢な者」が当分の間相変わらず人間の最高の典型である。曙光 425 「私はこういう人間です」 そう自分に定義付けをしていけば、グラ

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誰のために真理は存在するか

今までは、誤謬というものは慰めになる力であった。現在人々は、認識された真理に同じ効果を期待して、いささか長い間すでに待ち受けている。真理が他ならぬことを―慰めることを―果たすことができないとすれば、どうだろうか? 曙光 424 前半抜粋 ニーチェには残念ですが、真理は、誰のために存在するという性質のものではありません。誰かのために用意されたようなものは真理ではなく妄想であり、誰のためということことでもなく、かつ誰にでも確認できることこそが真理と呼ぶにふさわしい理です。 真理という言葉 真理という言葉はかなり「真なる

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不平家

それは、あの古い勇者の一人である。文明が彼の癪にさわる。文明は一切のよいもの、名誉、富、美人を ― 臆病者の手にも入り得るようにする、と彼は考えるからである。 曙光 153 不平家ということで、不平について触れていきます。不平とは何かを不満に思っていて、心が穏やかではないことを意味しますが、その奥には、不平等としての「公平ではない」という状態があるはずです。 不平家とは、そうした不平や不満をもつ者、「公平ではない不平な状態」を厭い嘆く者という感じになりましょう。 平等教育が進み、何かにつけて平等であり公平であるべき

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宣誓のひな型

「今私が嘘を言うなら、もはや私は決して真面目な人間ではない。誰でも私に面と向かってそういってよろしい。」―私はこのひな型を、法廷の宣誓とその際しきたりである神への呼びかけとの代わりにおすすめする。この方が強い。信心深い人でも、これに反する理由は持たない。 曙光 152 前半抜粋 宣誓とは、もちろん誓いの言葉を述べることであり、主に「誠意を見せるため」という目的のために述べる誓いの言葉のことを意味します。 宣誓というものがなぜ必要なのか、それは異なった考えを持つ人同士の中での一種の取り決めのような性質があるからではな

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ここで新しい理想がつくられる

恋愛状態のとき、自己の人生の決断を下したり、激しい気まぐれのために自己の伴侶の性格を断然決定してしまったりすることは、許されるべきことではない。われわれは、愛人同志の誓いを公に無効であると宣言し、彼らに結婚を許さないようにするべきであろう。 曙光 151 前半抜粋 性格も傾向はある程度固定的なものであっても、表に現れる行動などは一様ではありません。そのかかる負荷度合いが弱かったり、単発なら怒ることがなくても、様々な種類の強いストレスが連続して起こると、優しい人でも怒り出すことは当然に考えられます。 特に恋愛に酔って

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結婚の偶然

「まだひとりぼっち?」というような広告がよく出ます。まだどころか全存在は永久に独りです。独りでないかのように感じるのは錯覚ですから、独りであっても、誰かといても、結局は独りなのだ、と肝に銘じるどころかそれが自然です。 好きな人がいればその人と結婚すればいいですが、「出会いがないけど結婚がしたい」という人は、今一度自分がどういう理屈でそのようなことを考えているのか考えてみたほうがいいでしょう。 「みんなが言っている」というのは、世間の人を説得できても、僕のような類には通用しません。それは根拠として乏しいどころかナンセ

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どこで自分を知るか

動物は他の動物を見るや否や、心の中でそれと優劣を争う。そして未開時代の人間も同じやり口である。ここから、どんな人間でもその場合、ほとんどその防御力と攻撃力に関してのみ自分を知るということが明らかになる。 曙光 212 時に防御力、攻撃力という言葉を使うからこそ「言ってることが少年ジャンプっぽい」と有吉氏に言われるんだぞニーチェ! つまりは他の存在と相対化してしか自分を測れないのが通常だというようなことでしょうか。となると、「俺のスペック需要ある」氏も、動物や未開時代の人間と同じやり口だ、というようなことになってしま

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不死を夢見る人々に

大昔からでしょうか、不老不死を追い求めるようなテーマは数知れず、今でもアンチエイジングという言葉がちらほら歩いています。 そういう事を追いかけている人もちらほらいたりするものの、老いなかった人も、死ななかった人もいないので、現在もそのような人を確認できないわけですが、どうしてそんなにその事実を無視するのでしょうか。 しかしながらそんな事実よりも、もっと忘れそうになるのが、「不死は幸せだ」は本当か、ということです。夢見ているのだから、いいものだと思っていることは間違いありません。 「不死=幸せ」は本当か? おそらくイ

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それ「自体」

昔人々は、おかしなものが性質として付着している物がわれわれの外部に存在するかのように、おかしなものとは何であるか?と問うた。 ― 現在人々は、笑いとは何であるか?笑いはどうして起こるのか?と問う。人々は考えたあげく、よいものそれ自体、美しいものそれ自体、崇高なものそれ自体、悪いものそれ自体は存在しないが、われわれが自分の外部や内部の物にそのような言葉を与える魂の状態は存在する、ということをとうとう確定した。 曙光 210 抜粋 それ「自体」を指していると考えていても、「それ自体」の付属した性質、つまり付着した性質が

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最も厳密な理論の効用

人々は、ある人間の多くの道徳的な弱点を大目に見、その上粗い篩(ふるい)にかける。彼が最も厳密な道徳理論を信奉するといつも公言しているとしてのことだが!これに反して人々は、自由精神の道徳学者の生活を、いつも顕微鏡で調べてきた。その生活に過失があれば、ありがたくない認識の最も確実な反証になる、という底意を抱きながら。 曙光 209 「その生活に過失があれば、ありがたくない認識の最も確実な反証となる」 これは日常でよく行われていることです。自分に都合が悪くなれば、相手方の過失を見つけ、関連させて、本題とは全く違った性質な

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