カテゴリー別アーカイブ: 第三書

曙光(ニーチェ) 第三書 曙光(ニーチェ)全記事一覧

雑な首尾一貫性

われわれは特筆大書していう。「これこそ特色のある人物だ!」― そうだ!彼が雑な首尾一貫性を見せるとき、それが、どんよりした眼にも明らかであるとき!しかし、一層鋭く、一層深遠な精神の持ち主がいて、高級なやり口で首尾一貫して見せるや否や、観客は、特色のある人物がいるということを否認する。そこで狡猾な政治家は、一般に雑な首尾一貫性で偽装して、その狂言を演じるのである。 曙光 182 まあ、B層戦略を見れば明らかで、歴史的にも大衆扇動の方法として古くから使われてきました。 「みんなの意見を尊重する」というのはいいですが、そ

» 雑な首尾一貫性の続きを読む


支配する

ある者は、支配欲からして支配する。他の者は、支配されないために支配する。― 後者にとっては、それは二つの悪の中で小さい方の悪であるにすぎない。 曙光 181 支配と被支配について考えたわけでもないのですが、世の中の大半の人は、支配されたいという側にいます。おそらく9割以上でしょう。 それは性欲動的なものなのか、意識の中の刷り込みなのかはよくわかりません。 まあ支配する側と支配される側をよくよく観察すると、支配する側のほうが色々と目配りも気配りも必要になります。つまり世話や管理が大変だということで、想像よりも手間がか

» 支配するの続きを読む


戦争

現代の大きな戦争は、歴史的な研究の成果である。 曙光 180 「戦争」 こんな思想主義的なテーマのタイトルになるとは、といった感じですが、特別企画なので仕方ありません。 今の現代で戦争といえば、さまざまな歴史的な研究の結果、いろいろな主義ができて、その主義同士のぶつかり合いとして、無駄に戦うということが繰り広げられています。 まあ言ってしまえば、戦争は悪か否か、というようなことすら主義ですので、戦争についての意見自体が戦ってしまうという落語的な結果になっています。 しかし戦争は、その属する社会、個人の集合体をもって

» 戦争の続きを読む


国家をできるだけ少なく!

われわれの時代は、経済について語るだけ、一個の浪費者である。それは最も貴重なものすなわち精神を浪費する。 曙光 179 文末 ある時から、消費が自分を高めてくれることには限界があることに気づきました。 つまり物やサービスを消費することで得られる面には限界があり、それらが自分を満たしてくれる程度には限界があるのだということをです。 そして、「社会のため」という大義名分は、非常に遠回りで、疲れるだけだということを感じました。 社会においてもっとも危険な洗脳の一つは、義務教育課程で教える側にいる人たちの思想です。 そのタ

» 国家をできるだけ少なく!の続きを読む


日々使い古される人々

この若者たちには、人格も、才能も、勤勉さも不足していない。しかし彼らには、自分自身に或る方針を与える時間が決して許されなかった。むしろ彼らは、幼児から或る方針を受け取るように習慣づけられた。彼らが「荒野に送られる」に足りるほど成熟したその頃、幾分違った扱いがなされた。― 彼らは利用された。彼らから自分自身が奪い取られた。彼らは日々使い古されるものへと教育された。それが彼らの倫理学となった。 曙光 178 前半 意識の中の材料がそれほど多くない年頃に「あなたの夢はなんですか?」と聞くことは、一種の洗脳に近いと昔から思

» 日々使い古される人々の続きを読む


孤独を学ぶ

おお、諸君世界政策の大都会に住むあわれなやつよ。諸君若くして才能に恵まれ、名誉心に苦しめられている人々よ。諸君は、あらゆる出来事に― いつも何かしら起こるのだが― 一言するのを義務と心得ている! 曙光 177 前半 また少し久しぶりになってしまいました、曙光です。 引用にも出てきていますが、コメントしたがる奴って何なんでしょうね。 「一言するのを義務と心得ている!」という感じなのか、何の価値もないようなことを平気でコメントしてくるやつです。 「一言するのを義務と心得ている」安易なコメント 特に現代では安易なコメント

» 孤独を学ぶの続きを読む


祖先に対する批判

新しい世代は、祖先の見解を取り入れたばかりでなく、可能な場合には一層激しく取り扱うことによって、自分を感じはじめた。祖先に対する批判は、当時は悪徳であった。現在では年少の理想主義者たちは、批判ではじめる。 曙光 176 後半 あまりにも現実というものを軽視していることが、迷いの原因です。 普段現実だと思っていることは、様々な情報に起因してフィルターがかかった状態で「現実だと思っている」というのが、本当のところです。 何かを考え始める時、何かの文献を頼りにしろという方法論自体が、少しおかしいといつも思います。 それは

» 祖先に対する批判の続きを読む


商人文化の根本思想

個人的な競争が古代ギリシア人にとって精髄であり、戦争や、勝利や法がローマ人にとって精髄であったのと同じように、商業が精髄である社会の文化が成立しつつあるのを、われわれは今日幾重にも見る。商人は一切ものを作ることなしに評価し、しかも彼自身の個人的な需要に応じてではなく、消費者の需要に応じて評価することを心得ている。「誰がどれだけこれを消費するのか?」が、彼の問題中の問題である。 曙光 175 前半 商人文化の根本思想ということで、商人とそれ以外の人との根本的な商いに対する考え方の違いや商人文化や商業を嫌う人たちについ

» 商人文化の根本思想の続きを読む


商業社会の道徳的流行

現在の道徳的流行の原則― 「道徳的な行為とは、他人に対する同情心の行為である」― の背後に、恐怖心という社会的な衝動が支配するのを、私は見てとる。 曙光 174 序 某産業団体の「裏役員(決して怪しい存在ではありません)」をしているため、先日、自己啓発に洗脳された人から、当該師匠をセミナー講師として、起用して欲しいという説得をされました。 僕が直接されたわけではないのですが、団体構成員を経由して、団体の方に依頼が来ました。 洗脳系の自己啓発であり、普段はぼったくり自己啓発セミナーを開き、あげくセミナー受講生を弟子と

» 商業社会の道徳的流行の続きを読む


労働の讃美者

「労働」が称賛され「労働の祝福」について倦まず語られる場合、私は公益的であって個人的でない行為が賞讃される時と同じ底意を見てとる。あらゆる個人的なものに対する恐怖という底意を。 曙光 173 前半 労働自体がよく賞賛されることがありますが、そうした労働を含め、社会的な物事においては、個人的な利益よりも公益のほうが賞賛される傾向にあります。 なぜ個人的な利益よりも公益的なモノのほうが評価されるのか? それはそれを判断している人としては、相手の個人的な利益は自分の利益に一切つながらないものの、公益的なものであれば少しは

» 労働の讃美者の続きを読む


悲劇と音楽

たとえばアイスキュロスの時代のギリシア人のように、心情の根本的な調子が戦闘的である人々は、なかなか感動しない。しかし同情が一度彼らの厳しさに打ち勝つと、それは彼らを夢うつつのように、「魔物の力」のように感動させる。 曙光 172 前半 アイスキュロスは、古代アテナイの三大悲劇詩人の一人とされ、悲劇を確立させたとされる人のようです。 さて、心情の根本的な調子が戦闘的である人、つまり一般的な印象で言うと体育会系になりますが、体育会系が感動しないかというと、実は文化系よりもすぐに涙しているような気がしてならないのですがい

» 悲劇と音楽の続きを読む


近代人の養育

すべてを食べる人間は、一番上等の種ではない。 曙光 171 中 うまい飯屋を「知っているだけの人」の類については、さんざん触れてきました。 しかし、味覚など本人の感性しだいであり、結局は頭の中で合成しているだけのことです。錯覚させようと思えばできてしまうことです。 しかし錯覚させなくても、たとえば白米や塩などであっても、よくよく味わうとなると、味を追いかけるのに相当の集中力が必要になります。 本当に集中して食べると、ご飯だけでもものすごく味が変化します。 ということで、「映画を観ながらのポップコーン」などはやっては

» 近代人の養育の続きを読む


感情の別な見通し

ギリシア人についてわれわれは何とたわいのない話をしていることだろう!彼らの芸術について、一体われわれは何が分かっているのだろう。その芸術の魂は― 男性の裸体美に対する情熱である!そこからはじめて彼らは女性の美を感じた。したがって彼らは女性美に対して、われわれとは全く別の見通しを持っていた。そして彼らの女性に対する愛も類似した関係にある。彼らは別様の尊敬をもち、別様の軽蔑を抱いていた。 曙光 170 女性に対しての感情はいくつかありますが、一種の軽蔑と怒りがありました。ひとつの軽蔑は醜さです。特に美魔女でしょう。なぜ

» 感情の別な見通しの続きを読む


われわれが極めて疎いギリシア的なもの

東洋的であれ近代的であれ、アジア的であれヨーロッパ的であれ、これらすべてのものは、ギリシア的なものと比較すると、嵩高(かさだか)なことや、崇高なものの表現としての巨大な量を楽しむことが、特有なことである。われわれは、ペストゥムやポムペイや、アテナイにおいて、またギリシア建築術全体の前において、ギリシア人が、どんなに小さな量で何か崇高なものを表現することができ、また表現することを好むかに驚くのに。― 同じようにギリシアでは人間自身が、彼らの考えの中でどんなに単純であったことだろう!人間智の点で、われわれは彼らよりもど

» われわれが極めて疎いギリシア的なものの続きを読む


ひとつの模範

私はトゥキュディデスのどこを愛するのか?私が彼をプラトンよりも深く尊敬する原因は何か?― 彼は人間と出来事のあらゆる典型的なものに、最も広範囲で最も偏見のない喜びを感じ、そしてどの典型にも、ある量のよい理性が属していることを見出す。これを、彼は発見しようと努める。彼はプラトンよりも大きな実際的な公正さを持っている。 曙光 168 前半 トゥキュディデスは「戦史(ペロポネソス戦争史)」の人ですね。「アテナイ」オタク以外は知らなくてもいい人です。 どうせ模範にするならと、優れたような人がいないか探したものですが、やはり

» ひとつの模範の続きを読む


無条件の忠誠の誓い

車の免許を取るために自動車教習所に行った時のことです。 「はいはい」と返事すると、「『はい』は一回でええんや!」と中尾彬調の教官に叱られたことがあります。なぜ叱られたのはよくわかりません。 だれにでも同じことを言っているのならいいですが、おそらく教習生などにしか言っていないでしょう。相手がそこそこの大人ならきっと言っていないはずです。 「教えてもらいに来てるんやろ?」と彼は言いました。 すいませんが、あなたは僕からお金をもらっています。 脳筋教官が求める忠誠 なぜお金を払ってまで、忠誠まで誓わねばならないのかよくわ

» 無条件の忠誠の誓いの続きを読む


去就に迷う

去就に迷う。 ー 「この仕事はやっていられないが、食い扶持が無くなるのは困る」、さあどうするか。 世間でもよくありがちな「身の上をどうするか」というこの命題に対しての回答は、「すぐに辞めろ」です。 イライラや焦燥感、恐れなどを解消するために稼いでいるのに、その稼業によって、イライラや焦燥感などが出てきているのならば、もっと良い仕事を探すべきです。 仕事に限らず、それがコミュニティであっても、パートナーであっても、それまでの歴史・実績的なものは頭から外して、これからの身の上をどうするかを考えねばなりません。 詐欺的と

» 去就に迷うの続きを読む


いかなる道徳が退屈させないか

道徳の時間というのは他の授業とは異なり、変な空気感が出ます。それはやはり道徳というものは人生にストレートに関わることであり、ギムキョの偽善をひしひしと感じる時間であるからです。基本的に何かの教材を使って、自分たちの思想を教え込もうとしますが、やはり多感なティーンにはそれが偽善に映ってしまい、本来の目的からは逆行した結果が生じることがあります。 道徳の時間において懐疑や反駁はつきものです。それをそつなく返し、さらに道徳を語れるほどの哲学的思考を持っているのか、ということも問題ですが、「いかなる道徳が退屈させないか」と

» いかなる道徳が退屈させないかの続きを読む


多分早すぎる

一昔前までは知りたくても知れない、調べようにもなかなか調べられない、よって自分塾を開き、自問自答するしかないという感じでしたが、最近では小学生でもiPadを持っています。自分が思春期の頃にはそういったものがありませんでした。 知りたくてもなかなか調べることが出来ない、調べようとしても調べ方すらわからない、という状態は自問自答力を鍛え、妄想力も空想力も、そして論理力すら養うものでありました。 しかしながら近年では容易に調べることができます。あまり調べて欲しくないようなことまで調べることが可能という感じになっています。

» 多分早すぎるの続きを読む


ルソーに反対

われわれの文明は何かあわれむべきものそれ自体を持つということが真であるなら、ルソーとともに「このあわれむ文明はわれわれの劣った道徳に対して責任がある」と結論を続けるか、あるいはルソーに反対して次のように逆の結論を出すかは、諸君のお好み次第である。 「われわれのすぐれた道徳は文明のこれらあわれむべき状態に対して責任がある。善悪に関するわれわれの弱い―社会的な概念、心身に対する絶大な支配は―自主的な、独立的な、とらわれない人間を、すなわち強い文明の支柱を破壊してしまった。劣った道徳に現在なお出会う場合、これらの支柱の最

» ルソーに反対の続きを読む


現代人の皮肉

日下一切の大きな関心事を皮肉に取り扱うのが、ヨーロッパ人たちの流儀である。彼らはそれらの仕事に忙しいため、それらを真面目に考える暇がないからである。 曙光 162 現代人の皮肉ということで、京都人の皮肉やそうした京都における皮肉の本意などについて触れていきます。 先日、パスカルの「哲学をばかにすることこそ、真に哲学することである」という格言について触れましたが、ただ単に皮肉に取り扱う場合と、真に「ばかにする」ということは似て非なるものです。 これは宗教を無条件に批判することと、思考の結果、排斥する場合との違いに似て

» 現代人の皮肉の続きを読む


時代に適した美

時代に適した美ということで「平安美人」という言葉が、現代では侮蔑に使われることもあるように、時代時代で美しさの基準は変化していきます。ある程度の「調和」という意味で一定の傾向はあるものの、一応変化していきます。 つい先日も触れましたが、間違っても80年代だけは繰り返してはいけません。いつまでも美しいとされるようなものはたまにありますが、時代時代の流行りが組み込まれたものは、やはり扇動されていることは否めません。 目や顎の好み ところで、僕は昔から、男女ともに目がパッチリした人や多少顎が出ている系の美人とされる人をそ

» 時代に適した美の続きを読む


見え坊で、けちで、賢くない

諸君の欲望は知性よりも大きく、諸君の虚栄心は欲望よりもさらに大きい。― そうした諸君のような人間には、かなり多くのキリスト教的な実践と、それに加えてわずかばかりのショーペンハウアー的な理論が徹頭徹尾おすすめできる! 曙光 160 見え坊は見栄っ張りを指し、外面・外見をよく飾ることで人からよく思われようとすることであるため、人の虚栄心についてでも書いていきましょう。 見栄を張り方としてはいろいろな張り方がありますが、見え坊とは、見栄っ張りの中でも 特に所有物や外見の装いなんかで見えを張ろうというタイプを指します。 何

» 見え坊で、けちで、賢くないの続きを読む


死者を復活させるもの

御存知の通り、自分の生まれ年(1983年)付近のものには身体からアレルギー反応が出ます。「80年代の匂いがするものはすべて抹消する」という思いは未だに消えていません。 80年代のすべてがダメというわけではありませんが、せっかく一度は死んでくれたあの「寒気を催す流行」をまた繰り返そうと何とか頑張る人たちを見ると、それだけで嫌いになります。 死者を復活させるものとして、80年代のニオイを復活させるものについてでも触れていきましょう。 80年代のニオイ 「マハラジャ」というものも、復活させようとしてはすぐに潰れ、というこ

» 死者を復活させるものの続きを読む


お世辞屋の風土

卑劣なお世辞屋は、現在もはや君主の近くに求めてはならない。― 君主は全て軍人趣味である。お世辞屋はこの趣味に反する。しかし銀行家と芸術家の近くでは、あの花は今でも相変わらず花盛りである。 曙光 158 卑劣なお世辞屋の典型例はもちろん保険屋ですが、大昔に「お互いに褒めあうと良い」というようなテレビの特集があったのを今思い出しました。 ウソでもいいから褒め合えというものでしたが、試しにやってみると、相手の顔は綻んでいるものの、こちらはだんだん疲弊するというものでした。 ほめられても困る 何年か前に、「ほめられても困る

» お世辞屋の風土の続きを読む