一層やさしくなること

われわれがだれかを愛し、尊敬し、讃嘆していて、さて、あとになってから、彼が苦しんでいることが分かると、― われわれは彼から湧き出てくるわれわれの幸福は、自分自身の幸福の豊かな泉から出てくるということ以外は考えていないから、いつも大いに驚くのであるが― 、われわれの愛や、尊敬や、讃嘆などの感情は、本質的な点で変化する。それは一層やさしくなる。 曙光 138 序盤 まあ曙光においてニーチェは、この後「彼が望むなら慰めの言葉を与える」ということで「よい復讐である」なんてなことを書いています。 昔「人は面白いなぁ」と思った

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罰する正義

「あなたの為を思って言っている」 という場面がよくありますが、99%くらいは嘘で、発言側の見栄や「恥をかきたくない」という恐怖心が発端で、そういう言葉を発しています。 そんなことは中学生にでもなれば分かることのはずですが、その発言者の人は自分も中学生を経験しているはずなのに、よほど鈍感な中学生時代を過ごしたのか、どうもそういう嘘をつきます。 もちろん嘘と言っても、本心も数%も入っているとは思います。 ただ、純度100%で相手を思い、説教するのはそれ相応の人くらいです。せめて菩薩レベルでしょう。 まれにそういう人がい

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認識と美

人間たちが依然として行っているように、彼らの尊敬と幸福感とを、想像の仕事と偽装の仕事とのためにいわば取って置くなら、想像と偽装とが対立する場合、彼らが冷淡と不快を覚えても驚く必要はない。 曙光 550 序 どんな業種にも共通して言えることですが、概ね抽象的な本質を掴んだものだけが勝っていきます。 おそらくこのあたりのズレが、ぽっと出の居酒屋なんかをすぐに廃業に追い込んだりしているのでしょう。 特にそれほど好きではないのですが、スティーブ・ジョブズなんかはその本質を捉えることに関しては天才的だったと思います(といって

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よりよい人間たち!

社会をより良くしていこうとするのはいいのですが、たいていの場合弱者にばかり合わせる形で玄人を制限し、あげく「選べない」という形で辟易させ、結果社会の加速を制限していることにそろそろ気付きましょう。 すごくわかりやすいのはガスコンロでしょうか。 「天ぷらを揚げている途中に電話がかかってきて長電話になり、天ぷら油から火災が発生」 という事が多すぎて、強火のままでいきたいのに「カチッ」と勝手に弱火になり、調理の流れが制限されるということが起こっています。 またそのセンサー的出っ張りのせいで軽めの鍋が傾くということがよく起

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魂の呵責について

ある人が他人の身体に何らかの呵責を加えるなら、今日では誰でも大声で叫ぶ。そんなことができる人間に対する憤慨は直ちに起こる。 曙光 77 序 魂の呵責についてということで、人がすごく憤慨する瞬間は、自分では何となく不服に思いつつ一応守っている各種「制限」、つまり社会的なルールを逸脱している人を見たときだったりします。もちろん、それだけとは限りませんが。 経済的なルールは、収益を最大化するために緩和されることがありますが、それ以外のルールはだいたい厳しくなっていく一方です。 自分が不服に思っているルールがあったとして、

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「自己逃避。」

バイロンあるいはアルフレッド・ドゥ・ミュッセのように、自分自身に対して短気であり、陰鬱であり彼らの行なうすべての店で逸走する馬に似ていて、そればかりでなく、自分自身の創作から、短い血管をほとんど破裂させそうな喜びと情熱だけを獲得し、その後でそれだけ一層冬のような寂莫と悲観とを獲得するような、あの知的な痙攣の人間たち、― 彼らはどのようにして自己の内面で我慢できようか!彼らは「自分の外」のものに同化することを渇望する。 曙光 549 前半 今回も例のごとく 「バイロンあるいはアルフレッド・ドゥ・ミュッセのように」 と

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悪く考えることは、悪くすることを意味する

悪く考えることは、悪くすることを意味するということで、「悪く考えること」についてでも書いていきましょう。 意識の中には遮蔽効果があります。五感からも、意識からも大量の情報がやって来る中で、省エネルギーのために、「すべてを見ずに一部のものだけを見る」ということが起こっています。 そういうわけで「悪く考える」ことは、ある種無属性の対象の中から「気分を害するもの」を中心に意識に上げ、「悪くする」ことを意味するという感じにもなります。 そして、一般的に悪いことが起こった時、その結果を操作しようとします。 しかしながらよくよ

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自己弁護する

多くの人間はしかじかの行為をする最上の権利を持つ。だが彼らがそのために自己弁護すると、われわれはもはやそれを信じない。― そして見当違いをする。 曙光 399 自己弁護することにはさまざま弊害があります。それが正当そうに見えるようなことであっても、どこかに自己欺瞞があります。 自己弁護とは、もちろん自分をかばう目的で言い訳がましく弁護することです。概ねプライドを守るためという感じで、つまりは自尊心の保持のためになされます。 根本的に自己弁護をするということは自己弁護の動機があるということです。その動機の裏には、何か

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ヨーロッパ的でなく、高尚でない

キリスト教には、何か東洋的なものと何か女性的なものがある。これは「神はその愛する者を懲らしめる」という思想の中にあらわれている。なぜなら東洋の女性たちは、懲らしめと世間からその身を厳しく隔離することとを夫の愛のしるしと見なし、このしるしが中絶すると不平を訴えるからである。 曙光 75 「誘惑者」で触れていますが、同級生のお母さんたちはみんなお母さんという感じですが、最近では「お母さんではなく一人の女性として」というような風潮になってきているのか、未だに「若い女」を目指そうとしているような雰囲気があります。 それと同

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力に対する勝利

これまで「超人的な精神」として、「天才」として尊敬されて来たものすべてを考慮するなら、大体において人類の知性はどうしても極めて低劣で悲惨なものであったに違いない、という悲しい結論にわれわれは到達する。立ち所にかなり人類を越え出ているという感じをもつためには、これまでほんの僅かの精神しか必要でなかった! 曙光 548 序 人を欺くつもりで演じるのではなく、本人も行ききっている形で堂々と物事を説く人がいた場合、その雰囲気に周りが感化されてしまうということが昔からよく起こっているようです。 ご本人が自己洗脳状態にあって、

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キリスト教徒の底意

次のことが第一世紀のキリスト教徒のごく普通の底意ではなかったろうか。「罪がないと思いこむよりも、罪があると思いこむ方がよい。というのは、はなはだ強力な裁判官がどんな気持ちでいるのか、よく分からないから。― しかし裁判官は罪を意識している者ばかり見つけたいと思っているのではないかと気がかりでならない!彼は大きな力をもっているので、自分の面前の人間が正しいということを認めるよりも、罪人を赦す方がたやすいであろう。」 曙光 74 前半 キリスト教徒の底意(そこい)ということで、正しいと認めるよりも赦す方がたやすい、という

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精神の暴君たち

小さな個々の問題や実験は軽蔑すべきものと思われた。人々は一番の近道を望んだ。世界のすべてのものは人間によって整えられているというように思われたので、事物の認識可能性もやはり人間的な時間の単位によって整えられていると人々は信じた。一切を一挙に、一言で解決すること。― これが密かな切望であった。 曙光 547 中腹 宗教的なものは代表例として当然ですが、一種の経済的民間信仰のようなものも、人を盲目にしていきます。 自由な状況で自由に思考するよりも、わかりやすい「神」などを設定したほうが、全てを一気に解決できるというよう

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かつてのドイツ人的な教養

あのドイツ人的な教養はヨーロッパ人を馬鹿にしたということ、またそれはそうした関心に、それどころかそのように模倣したり張り合って自分のものにしたりすることに値しなかったということは、否定することができない。まあ今日、シラーや、ヴィルヘルム・フォン・フンボルト、シュライエルマッハー、ヘーゲル、シェリングなどを捜すがよい。 曙光 190 中腹 「シラーや、ヴィルヘルム・フォン・フンボルト、シュライエルマッハー、ヘーゲル、シェリングなどを捜すがよい」 … 「誰?」 という感じの感想を持つ人が大半のはずです。 ということで、

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「真理」のために!

「キリスト教の真理が本当であることを証明したのは、キリスト教徒たちの節操のある実行であり、苦しみに際しての彼らの沈着であり、しっかりした信仰であり、何よりまず、あらゆる試練にもかかわらず普及し、成長したことである。」― そのように諸君は今日でもなお言う!気の毒なことだ!これらすべては、真理が本当であることも証明しないし、偽りであることも証明しないこと、真理は真実とは違った証明がなされること、そして後者は全然前者の論拠ではないことをどうか学んでくれ! 曙光 73 たまに「社会的に考えてはいけない」というようなことを言

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奴隷と理想主義者

奴隷と理想主義者ということで、いかにも奴隷で理想主義者っぽく映る人々について書いていきましょう。 日本でも2017年時点で戦後70年ちょっとくらいですが、終戦直後は焼け野原、その頃は今とは随分違った「普通」があったはずです、その後高度経済成長期などを経て、何故か日本のスタンダードのようなものが確立しているかのような風潮があります。 歴史としても半世紀くらいで、しかも状況は様変わりしているはずなのになぜか人生観だけは固定化されているような変な風潮です。 20歳位の時、つまり活字中毒の時に、よくこんなことを考えていて、

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なぜ「自我」を二重にするのだろう!

他人の体験の場合それを眺めるのを常としているような眼で、われわれ自身の体験を眺めること、― これはわれわれの心を極めて和らげるものであり、推賞するに足る薬品である。これに反して他人の体験を、あたかもそれがわれわれのものであるかのように眺め、受け取ること― 同情の哲学の要求であるが―、これはわれわれを破壊に導くであろう。しかも極めて短時間のうちに。 曙光 137 前半 同情と「憐れみ」「慈しみ」などとは若干の違いがあると思っています。 どうしても同情とはどこかしら「憐れみ乞いに付き合う」という要素が含まれている感じが

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「死後。」

死後を経験したことがないからこそ、「夢の中では死なない」なんてなことが言われることがあります。 「死んだ後、『私』はどうなるのだろう?」 「死後の世界はあるのだろうか?」 そんなことを思ってみたところで経験したこともないこと、経験し得ないことはいくら考えても想像の域を出ません。 誰がどう死後について語ろうと、その人は死んだことがないので死後のことについては推測の域を出ることがありません。 「死んで生き返った」ということを語ったとしても、それは死んでいないということになります。 だいたい胡散臭い宗教が心の隙間に入って

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贅沢な毎日

昨日の昼のことになりますが、現在要介護状態の養子のうさぎを撫でながらコーヒーを飲みつつ、はっぴぃえんどの「風をあつめて」なんかを聴いていると「すごく贅沢だなぁ」と感じました。 ほとんどたったそれだけのことなのですが、そんなことを書こうと思ったら眠気がして、夕方まで爆睡していまいました。 何も南の島に行ってビーチでのんびりとか、そういった手間のかかることをしなくても、同じくらいの「のんびり感」を感じることができるということは、すごく贅沢です。 そんな贅沢な毎日が続いています。 何かを「必要だ」と思い込んで、「やる気が

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しかしわれわれは諸君を信用しない

諸君は人間通であることを示したがる。しかしわれわれは諸君の誤りを見落とさないであろう!諸君は、諸君がそうである以上に、経験が豊かで、深く、興奮し、完全であるように見せかけるということを、われわれは気がついていないだろうか? 曙光 545 前半 「わざわいだ!偽善の律法学者パリサイ人よ!あなたがたは、やもめたちの家を食い倒し、見えのために長い祈をする」 ということで、「完全であるように見せかける」についてでも書いていきましょう。 マタイ23章ですが、すごく面白いですよね。 現代社会でも「ギクッ」となる人は結構いそうな

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ローマに対するキリスト教の復讐

おそらく普遍の勝者を見ることより以上に疲れるものはないであろう。 曙光 71 序 普遍の勝者を想定する場合、社会的な横並び目線で考えることは避けなければなりません。それはいずれ自惚れや欠落への恐怖心、もしくはルサンチマンを発動せざるを得ないからです。 同じような年齢の人同士ではよく比較なんかが行われます。先日もどこかで書きましたが、やたらとランキングが気になるのはそうしたものの最たるものです。 そして勝敗を絶対的に考える場合でも、例えば他人を無視して自分だけで考えていく場合でも、過去との比較、過去の記憶のようなもの

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大政策について

国民同様に個々人の利益と虚栄心が、どれだけ多くの大政策に協力しようとも、それを前進させる最も力強い流れは、力の感情の欲求である。 曙光 189 序 政策なんかをみていると、何かをやればポンコツでスベりつつ、結局一部の人達を制限しているばかりのような気がします。 特に最近の京都なんかは、対外的な見栄ばかりのような気がします。 まあ政策云々というよりも社会の流れが、毎度のごとく「意識しすぎて若干ズレている」という感じです。 弱者とされる人達や外国人にばかり合わせ、そうした人たちを意識しすぎてやることなすことが「若干ズレ

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怒りの中には期待があり、期待が無くなれば嫌な感情は消えていく

全てのタイプの怒りではありませんが、人に対する怒りについては、その中に相手に対する何かの期待があり、「変わって欲しい」というような願いが込められている場合があります。 そしてその期待が無くなれば、怒りを発端とする嫌な感情は消えていきます。 あくまで怒りや嫌な感情が「消えていく」のであって、瞬間的な怒りを経験しなくなるわけではないのかもしれません。 といっても、自分が認識している今は瞬間的に変わっていくので、それでも全く問題がない、という感じになります。 基本的に怒りは何かを排除したいという感情です。そして怒りの裏に

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現今の人々の哲学研究法

現今哲学的に考えるわれわれの青年たちや、女性たちや、芸術家たちは、ギリシア人が哲学から受け取ったのと正反対のものを要求するということに、私は十分気がついている。 曙光 544 序 現今(げんこん)の人々の哲学研究法ということで、活字中毒期の個人的な哲学的思索、哲学研究について触れていきましょう。 普通、哲学研究というと過去の哲学者が提唱した概念を学び、知り、それを踏まえて展開していくという風に想像されるところかもしれませんが、哲学の研究法は基本的には、日常、疑いをかけないことに対して疑問を抱くことから始まります。

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粗雑な知性は何に役立つか

「粗雑な知性は何に役立つか」ということで、今朝ふと思いついたことを書いておきます。 あくまで印象ですが、世間では頭の良さが上手く生きていくことにプラスだと思われていますが、どうも頭の良さは関係なさそうな感じのこともたまに見受けられます。 そこで頭の良さは、全く関係ないのかということにもなりそうですが、先日イニシャルDの藤原文太(主人公の父)が何気なく言っていたことを思い出しました。 当然のことなのですが、足回りのセッティングはパワーによって変えていかねばならないということです。 粗雑(そざつ)とはつまり、粗く雑であ

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情熱を真理の論拠にするな!

この場合は、情熱=パッション(passion)ということで、殉教としての情熱という感じでしょうか。 世の中には「押しが強い人」がいます。その内容が理不尽であっても押しの強さでやってきたというタイプの人です。 たまに政治家でもそのタイプの人がいますね。というより、そういう人たちはそうした気質を利用されつつ、ほとんど傀儡ですから、それはさておきましょう。 新興宗教にハマった人というのは概して押しが強いものです。 「迷っている人々を救うことで自分の徳が上がる」みたいなことを本気で思っていますから困りものです。 そうした人

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