10年前の日記 理解者との共同作業

ハードディスクを整理していると、ちょうど10年前、2005年3月23日 水曜日に記したであろうテキストデータが出てきました。その内容は以下のようなものです。

ヒロユキとタロー

忍空という漫画のアニメ、53話「友情の舞台!ヒロユキの秘密」が小学校の時から頭に焼き付いて離れない、という内容でした。ペンギンを含め、鳥好きと言うのもあるとは思いますが、たった30分のアニメなのに、僕の頭にいまだに焼きついているのも不思議なものでした。

ヒロユキとタローの「友情の舞台!ヒロユキの秘密」は、ペンギンのヒロユキとかつての相棒タローの話です。サーカスで働いているタローに外の世界を見せるため、しばらくの間ヒロユキが身代わりになってサーカスの綱渡りなどをする話なのですが、当時、忍空の何話かが全然わからずに探りようが無く、今のように動画サイトも特に盛り上がっていない時代だったので、レンタルビデオ店で探して、結局借りて観たようです。

ちなみに、半年くらい前にもう一度この53話を観ました。

「なんだそれだけか」、という前置きでした。

この頃は、今のように日本で盛り上がっているSNSはありませんでしたが、インターネット空間で、チャットやブログでのトラックバックなどでその代用のようなことが行われていました。中でのやりとりも広告に誘導するような広告臭い内容ではなく、比較的純度の高いやりとりが多かったように思います。

人生で初めての「理解者」との出会い

その頃に、それまでの人生で初めて、ある種の理解者という者に出会いました。

それは所謂「共感してくれる人」や、「優しく配慮してくれる人」というタイプではなく、「曖昧なことを言わない人」というタイプの人です。体育会系のような厳しい上司や先輩というタイプではありません。勝手に思い込んだ「人生とはこう生きるべきだ」という、社会的な洗脳をなぞり、それをよく知っているだけで、偉そうに人に説く、自称「できた人」というタイプではありません。

それまでにもたくさんの優しい人には出会いましたが、思考優勢の性格をしていると、それは単なる「ごまかし」にしか思えないようなことがよくありました。

実際は、難しく考えずに気楽に楽しく過ごしていれば、それが意識の中で優勢になれば、自然と疑心暗鬼も消え、爽快に暮らせるというタイプの人もいるでしょう。しかし、そういうタイプの人ばかりではありません。

嫌でも限界を目指してしまう

一瞬で矛盾を見抜いてしまうというタイプの人がいます。それがいいことなのか悪いことなのか、すごいことなのかすごくないのかは関係ありません。ただそういうタイプの人は確実にいます。矛盾を見抜くだけでなく、論題からずれていることも一瞬で見抜きます。

たまに論争などで徐々に本題からずらしていくような戦い方をする人がいますが、そんな浅知恵は通用しません。

「適当な事を言われては困る」

常にその姿勢を持ったタイプです。その手の人に、曖昧なことを言っても逆効果です。そのタイプの人に、薬で神経を落ち着かせたとしても、「足りないのは愛情だ」と言って、何かふれあいのようなことをしても、自然の中で療養しても、また、すぐに自己論争が始まります。

本当は決着を付けたいのに、誰もそこまでのことは教えてくれず、教えられもしないのに、目上ぶられると困る、と思っています。

自分より何歩も先の思考をしたことのある人にでも、納得をさせてもらえるのならそれでいいと思っていますが、しかしながらそんな人は見渡してもなかなかいません。実際は出会って話しても、すぐにその人を超えてしまうのですから、それ以上何も教わることはないと思うと同時に、がっかりします。

世にあふれている本などを見ても一瞬で矛盾や抽象度の低さを見抜いてしまいます。

別に誰かに頼りたいわけではありません。自分の中で納得がしたいというだけなのですが、誰もそういった説明をしてくれる人がいません。わかればそれでいい、思考に決着が付けばそれでいいのですが、なかなかつきません。

自立支援のようなところに行っても無駄でしょう。そこで自分が納得できるような哲学的問いに対する解答を寸分の狂いもなくしてくれるような人がいれば、行く意味もありますが、「人のぬくもり」を得ても、やはり命題に対する解を求める気持ちは消えません。

そんなことが聞きたいんじゃない

一時的に落ち着くことはあるかもしれません。しかし、やがてまた考えが回転しだします。「考えることに意味が無い」というのならば、どういう意味で意味が無いのか、寸分の狂いもなく説明できなければ納得しないというものです。

「そんなことが聞きたいんじゃない」

ということです。曖昧なことを言うな、というものですが、例えば次のような「はぐらかし」です。

「大人になればわかるよ」

「自分が親になればわかる」

ちがうよ。そんなことが聞きたいんじゃない。

共感や配慮ではない本質的な理解者

よく「うつ」の時は周りに理解者がいるとよいと言われますが、その際の理解者は、自分の症状を理解して配慮してくれる人、程度の意味です。それもありがたいですが、それだけでは決着がつかない人がいます。

その当時、まさか自分と同じような考えと苦悩を持った人がいるとは思いませんでした。いえ、どこかでもしかしたらいるかもしれないと思ったからこそ出会ったのでしょう。年齢、職業は後から知ったのですが、彼らとはインターネット空間で出会いました。理解者で触れたおばあさんとはまた違った側面での「理論的」な方の理解者です。理解という意味では、こちらの方が本質的な理解者です。

21歳の僕×26歳の営業マン×24歳の大学院生

特に彼らは、うつの病状を持っているわけではなく、ただ、別件で哲学的彷徨いをしている人たちでした。出会ったのはブログやチャットですが、鬱などのカテゴリではなく、哲学分野で出会いました。

今思うと、論じあっていた内容はまだまだ浅い内容でしたが、当時としては同じように「納得していない人」がいるというだけで少しほっとしました。共感者が欲しかったというわけではなくて、そこまで考えられる人がいるというだけで、もしかしたら自分の思考も限界を見切ることができるようになるのではないか、という安心感です。また、世の中のすべての人が「曖昧な人」ではないという「例外」の発見により、社会に溶け込んでも同種の人間ばかりで関わり、過ごせばいいではないかという、社会への許容も視野に入りました。社会はウェーイがたくさんいますが、ウェーイではない人もいるという発見が一種の安堵をもたらしました。

「わかるやつがいるだけでもいい」

そのように思いました。共感して欲しかったというわけではないのですが、社会がイコールで人との関わりであるならば、同種の思考を持った人たちなら関わってもいいと思えたからです。

その中でも特に良い思考鍛錬をしてくれたのが、26歳の営業マンと24歳の大学院生でした。もちろん論理バトルをしている時は年齢も職業も知りません。一段落してから自己紹介をし合ったようなものです。

もちろん彼らは体育会系ではありません。そのような上下の思想を持ってはいませんでした。「俺は先輩だから教えてやる」というような寒いことは一切言いませんでした。むしろそういうことの非論理性から、社会を辟易していたような人たちです。

「意味がわからない」

ということです。彼らとはそういった根拠が見えない前提を全て破壊していくということをしていきました。

理解者との共同作業

彼らは僕に「教える」というタイプのことはしませんでした。僕も彼らに教えるというようなことはしませんでした。もし、仮に「教える」ようなことをすれば、一切の矛盾を許さない相手同士です、完全な論証と無矛盾かつ絶対性を問われます。根拠に権威や歴史などは使えません。哲学的な領域なのだからそれは不可能です。「世間一般ではこう考えられている」というものを一切許さないもの同士ですから、安易に「オレは知っているから教えてやるよ」というようなことをいうと、凄まじいツッコミが来ます。

仮に「親を大事にしろよ」というような、世間では何の問題視もされないことであっても、「なんで?」と必ず返ってきます。

難しいような論理を組み立てて、相手を混乱させて、反駁ができないから「真」としようとしても、それをひっくり返してきます。「反駁できないからといっても唯一絶対という証明はできない、なぜならば…」とすぐに返ってきますから、生半可な「オレは知ってるぞ」など通用しません。

「それはそういうものだ」

という言い訳も通用しません。おそらく脳味噌が筋肉で出来ているような人ならば一分で精神が崩壊するでしょう。つまり、リアルなら「言い返せないから後輩を殴って終わり」というような感じです。

実際にチャットなどでは、何人も横槍を入れてくる人がいましたが、彼らが一瞬で論破して、またすぐに三人になりました。ちょろちょろ入ってくるのですが、すぐに出ていきます。その様子は非常印象に残っています。文体などは異なれ、自分が打とうとしているより先に、自分の考えと同じことを先に言ってしまわれるのですから、まるで思考の自動入力のような光景でした。

ただ、その当時、僕たちは全員、まだ社会というものが実体として存在しているという前提で話をしていました。自己の実在も、時間の実在も当然のこととして、話していました。

しかしながら、自分を超えることはできなくても、ひとまず社会というものからの独立という意味では十分に意味があったように思います。

雑談 親の責任

雑談の中で、印象に残っているような会話があります。

「なぜか両親が、親らしくないとどこかに苛立ちが起こってしまう。簡単に言うと洗い物が放置されている、などなど」

「どこかに相手への依存がある、と言いたいところだが、もっと厳密にいこう」

「普通なら、『いつまで親に甘えてるんだ』とか、そういう意見で終わるだろうな」

「未成年は保護されると法律で決まっているとかを根拠に、もうそんな歳じゃないだろとかでしょ」

「つまり大前提として『個人は個人で独立して個人的責任がある』ってことで、人は独りで生きているってのがデフォルトだな」

「そうなるな」

「そうそう法律根拠なんて論外だろ」

「そこで、どんな時でも独りで1人分の生命維持をするのが大前提なわけで効率考えての社会形成でしょ」

「ひとまず何のための生命維持かは置いといてな」

「だから親が責任を負うってのは社会的な考えで、国は面倒みんよ、先にあんたらが面倒みなさいよっていう国対親の関係であって、親と自分じゃないわな」

「そうなるわな」

「人は一人で生きてんのよ。社会の一員かのように見えて、社会は個人のための効率化ツールだから」

「で、一人で全部するのが当然なのよ。でも効率悪いから作業分担したりしてるわけでしょ。会社とか」

「で、一人で全部できない間、つまり食料調達とか、小さい時は実際には厳しいわけだから、やってくれるわけよね」

「やってくれるだけでありがたいよな。全部自分でやんのが当然なんだから」

「その延長で行くと、いつから自分で完結すんのかって時間的線引が難しくなるわけさ」

「でも、別に責任があるからやってくれてるわけじゃない。誰に対する何の責任かわからんから」

「自分の暇つぶしのために、子どもを作ったのに責任負わんってのも子どもにしちゃ迷惑だろうな。別に生まれなくても良かったわけで、あくまである種感情のためか、生存本能的な問題で勝手に産み落としたはずだから」

「そりゃそうだ。でも責任はない」

「時間的線引も難しいけど、最初から責任問題はどこにもないぞ」

「生命維持は、個人の自由さ。自分に関する全ての選択権は自分にある」

「そう全ての選択権は自分にある。だから別に相手の言うことは聞かなくていいが、相手の言うことを聞かなかったから、何か与えられる予定だったものが与えられなかった、といってもそれは相手との交渉の話になるから『責任』という問題は生じない」

「嫌なら全部捨てて、全部自分でやる、その自由はいつでもある」

「相手に何かを求めるなら、文句は言わないことだ。あくまで交渉の世界だからな。決まりきっている責任などというものはない」

「だから同じように相手にも選択権と自由はある。嫌なら家族を捨てて逃げてもいいわけだ。そこに社会的な責任として、民事的な金銭換算の責任を『社会』が押し付けてくることはあっても、究極的には絶対的に自由だ」

「相手への責任を考えるなら、相手の自由はなく、自分にも自由がないことになる。しかしどこまで言っても個人は個人でひとつの独立性を持っている。それは誰かが何かの決め事をしても、社会としての決め事にしかならない。絶対的にはどこまでもいつまでも独立している」

「簡単にいえば、相手も独立した個人であって、親以前に一人の人間だということになる」

「自分と相手に差があるのはおかしいだろ」

「相手に責任があって、自分にはないと決めるのは自分だ。同様に相手も独立した存在だとしたら、相手も『相手に責任があって、自分にはない』と決めることができる。」

「どこまでも責任に根拠なしってことで」

「責任なんて言葉は、たまに説得には使えても、絶対性はどこにもないぞ」

「そして第三者が責任を設定することはできない。自分と相手の二者間の関係性において、第三者が設定した責任を許容するのは各々の個人だからだ」

「だからやってくれてる分だけでもありがたい話なわけで」

「それは親にかぎらず、相手が誰であってもだ」

「なるほどそりゃそうだ」

「『親に感謝しろ』って言葉だけ言う奴は、なんとなくの雰囲気で言ってるだけだから、無視してもいい。別に感謝するのも自分の自由だということだな」

「やってやってるから、せめて少しくらいはいい気分のお返しをしろ、って主張の類だな」

「やりたきゃやればいいが、感謝の強要ってのもおかしな話だ。これは交換であり、一種の交渉だな」

「それがある分には、いい気分の交換条件としての行動って要素があるな」

「これでわかるだろう。感謝するもしないも、自分に決定権があるということが」

「同時に相手の行動も、相手に決定権があるということだ」

「責任があると自分で勝手に決めて、行った行動を根拠に、相手にお返しを求めるのは押し売りということになる」

「同時に相手に責任があると勝手に自分で決めて、相手を責めるのはもっと変な話だ。根拠などどこにもない。自分の気分、思い込みだけだろ」

「自分も相手も独立した個人で、意志決定の権利はそれぞれにしか無い」

「じゃあ年齢的な線引もはじめから土台が無くなるってことだな」

「最初から責任なんてどこにもない」

「どこまでいっても最初から人は一人で存在してんのよ」

「責任も決定権も自分一人の世界がデフォルト。だから、恩恵みたいなものはタダで与えられてるみたいなもんで、ありがたいっちゃありがたいから、感謝したけりゃ感謝すればいい。でも感謝する責任はどこにもない」

「さあそろそろ、元のお題に戻りますか」

「そうしよう」

「そうしよう」

理解者はいてもいなくてもいい

以上、当時を思い出しながら、書き記してみました。

うつ治療の説明には「理解者が絶対不可欠です」とよく案内に書かれていますが、そうなると理解者がいなければいけないという事になってしまいます。

しかし、そこで言われる理解者はいてもいなくても構いません。いたほうがいい、くらいのものですが、仮に「共感者」ばかり求めてしまうと、共感者や配慮してくれる人に依存してしまうことがあります。ありがたい存在ですが、それを求めたり依存したりすることは、してはいけません。

世の中には「甘えさせてくれ」というタイプの人がいます。残念ですが、緊張を解くことはいいものの、いつまでもそんなことをしていては、根本的に解決はできません。

人に依存して得る安心感など茶番です。感情を感じきって手放すということはいいですが、人にぶつけてばかりいてはいけません。

それは相手に迷惑だということではありません。自分の中でそれが条件になってしまうからです。

まずは、気持ちをぶつける、というようなことをして感情の暴走、心的エネルギーを沈下させるのはいいですが、それでは人への依存が生まれてきます。

だからといって、自分で抱え込む必要もありません。肩を貸してくれる人がいるならば、どんどん借りましょう。しかし、相手には何の責任もありません。何かをしてくれないからといって、責めることはできません。それが近親者であっても、保護者であっても責めることはできません。頼ったとしても、責めることはしない、ひとまずはこれが依存しないということです。

自分の力で元気になろうとする必要もありません、生きて、苦しみを感じている時点で既に頑張っていますから、それ以上頑張る必要はどこにもありません。

非常に勇敢な戦いの最中に、声援は不要です。

僕は別に「頑張れという言葉をかけてはいけない」と言われているから頑張れと言わない、というわけではありません。

そもそも「がんばれ」とか「がんばろう」という言葉が嫌いです。

つまり「がんばろうニッポン」も嫌いです。

なぜならば、それは頑張っていない人のおしりを叩くような言葉だからです。

生きているだけで十分に、頑張っています。何一つ頑張っていない人はいないどころか、そんな生命体は一つも見当たりません。

以前、生命力の弱った死ぬ寸前のある生き物を見たことがあります。

近くで見守っていたのですが、どんどん変色して変なニオイもしてきました。

生きる力が途絶えた時、みるみる酸素や細菌に汚染されていく様子をまじまじと観察していました。

いま、どのような状況であれ、死と勇敢に戦っています。

それ以上の奮闘は必要がありません。

まして他人にとやかく言われる筋合いはありません。

どんな生き物でも、常に勇敢に諦めること無く、死の寸前まで戦っています。

そんな存在に、「がんばれ」などという必要はどこにもありません。

誰が何様のつもりでそんな言葉をかけるのでしょうか。

気分だけの声援など不要です。

そんな言葉を、いつ何時でも使うつもりはありません。


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