道徳的な目標の定義に反対

現在いたるところで道徳の目標がほぼ次のように規定されているのを聞く。それは人類の維持と促進である、と。しかしそれはひとつの定式を持とうとすることでありそれ以上ではない。どこを維持するのか?と直ちにこれに問わざるをえない。どこへ促進するのか?と。ほかならぬ本質的なものが、このどこを?と、どこへ?の答えが、定式の中で脱落しているではないか!したがってこの定式を用いるなら、倫理学のためには現在すでに暗黙の内に無思慮に確定されたとみなされているもの以外の何ものが確定されるであろうか! 曙光 106 前半

本質的なものの定義が、定式の中で脱落しているのはよく見る光景です。気分や恐怖心から定式を発しているにもかかわらず、それを普遍的なものとして周りの雰囲気で確定していくことが多いでしょう。

雰囲気は雰囲気で、気分は気分で、文学的な一つの形としての「お遊び」ならいざ知らず、「道徳的な目標」は他人への強制、利己的な統制のために使われていきます。道徳的な目標の定義などそうした利己的な動機がほとんどです。

道徳的な目標の定義として、「いじめはかっこ悪い」という標語などがわかりやすいでしょう。

健全な青少年育成のためという謳い文句

「健全な青少年育成のため」という謳い文句で、スポーツの推進をしていますが、昔から不思議なことがあります。

スポーツをすることは健全な青少年育成につながるとでも言いたげです。

プロの世界で乱闘

では、どうしてプロの世界で乱闘などをしているのでしょうか?

大の大人が、イラッとしただけで殴りにかかっていい、ということになれば、健全な大人というものはイラッとしたら乱闘していい、ということになります。

プロはガムを噛んでいい

体育の授業中にガムを噛んでいたら説教されますが、プロはガムを噛んでいいそうです。その違いが未だにわかりません。

そういった事実がありながらも「健全な青少年育成のため」というのは、いったいどんな青少年を育成しようとしているのでしょうか。

健全な青少年の定義が曖昧

健全な青少年の定義が曖昧です。一体それがどんなもので、どんなふうに向かっていくのかかなり不透明です。育成する側が、暴力で指導しているようでは、そのような青少年になります。

怒りが生じれば乱闘をしてもいいんだ、殴りかかってもいいんだ、というようなことから、指導の名目であれば何かにつけて暴力で指導してもよいということを教え込めていけば、その青少年もいずれ大人になったときに暴力で子供を指導するような人になってしまいます。

上位に属するものは暴力で指導すること

体育会系はその時に目上はしてよい、と居直ったりしていますが、それもきちんと明文化して「上位に属するものは暴力で指導すること」ときっちり定義してみてPTAに報告してみてください。

年上であれば、指導者であれば、下級生や指導される側の人を暴力で指導してよいという旨を明文化しておけばいいのです。

そんなことを不透明な定義だと思わないことが、無思慮であり、どんな思考回路なのか不思議に思ってしまいます。

「いや、これはいいんだ」というのは、どういう論理構成でその帰結になっているのか、定式化して示してみて欲しいのですが、その手の人でそんな頭を持った人に出会ったことがありません。脳味噌が筋肉でできていますから。

といった内容を、ニーチェは語っているのでしょうか。ふふふ。

道徳的な目標の定義に反対 曙光 106

Category:曙光(ニーチェ) / 第二書

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