道徳的な刺蠅(さしばえ)

認識への愛が欠け、人を苦しめる喜びだけしかしらないあの道徳学者たちは、小都会人の才気と退屈さを備えている。彼らの残酷なまたあわれむべき慰みは、隣人を警戒することであり、隣人が刺されるようにそっと針をさしておくことである。彼らには、生き物や死んだものを捕獲したり虐待したりしなければ楽しくなかった、幼い子供の頃の悪戯が残っている。 曙光 357

僕は怒りそのものを否定していません。「人生で最初に本気でキレた瞬間」という題名で、少し触れたことがありますが、やはり「弱いものをいじめる」どころか、人間以外の生き物をいじめる様には最も怒りを感じます。

そこには、人間の傲りと快楽のためという感情優先の動機があるからです。

世間では人間をいじめるのは非難されるものの、相手が虫などであればそれが平気だったりというキチガイ的な道徳観があります。

動物の種類によって変化する道徳観と感情移入の要素

10年以上前になりますが、なぜ虫は平気で、人間はいけない、そして動物などであれば、その動物の種類によって道徳観も変化するのかということを考えたことがあります。

おそらく、ただ単に「感情移入するかどうか」という点ではないでしょうか。

犬などであれば、相手の感情が読み取れます。それを人間に照らし合わせてみると「可哀想だ」と感情が変化します。

ところが小さい虫などであれば、人間と形態が異なっているため、こういった感情移入が起こりにくくなります。

そういった理由くらいのもので、なぜか「人間だけはダメだ」位の感覚になっています。

しかし、僕はそんなことは思いません。

相手が人でなくとも、どのような生き物であっても、人間の快楽のために無駄に殺されたり傷つけられたりするということは否定します。そしてそれに対する怒りを否定することはありません。その怒りにとらわれることはありませんが、己の感情のための暴力や殺生は全面的に怒りの対象となります。

不殺生

「不殺生」といっても、極論的には、体内に入り込んだ微生物を抗体が死滅させていっています。よって、完全な不殺生は実現できないものです。「完全にできている」と主張する人がいれば、それは、微生物を生命と思っていない、というか下手をすれば気づいていない、あまり聡明ではない人です。

こうした不殺生や不殺生戒については、「不殺生戒と人を殺してはいけない理由」をご参照ください。不殺生戒を根拠として「不殺生」を「戒律として守ろう」ということ言っているのではなく、そういった戒律のようなものができた本意、その奥にある心の理について書いています。

さて、ただ、インフルエンザに罹ったときのあの日のおにぎりが教えてくれたように、少なくとも感情のためにはどのような生命も殺してはいけません。もちろん傷つけてもいけません

例えば、カブトムシやクワガタやセミなどを子供が捕まえたりしますが、子供のおもちゃではありません。

相手が虫だからといって、何をしてもいいわけではありません。

単純に、もし犬と暮らしているのであれば、その犬の足をもぎ取ったりはしないはずです。

植物は葉を摘みとっても、また生えてきますが、動物は生えてきません。

動いてなんぼの生き方です。その動きを封じられたりすれば死活問題です。

生き物は、おもちゃでもツールでもありません。

世の中には経済動物という呼称を用いたり、観賞用という表現をして、生き物を消費物かのように扱う人がいますが、他の生き物は他の生き物であり、人間の消費物ではないのです。

生き物に値段がついていたとしても、それは人間同士の取り決め、やり取りの間の話であって、その生き物の命の価値を示すものではありません。

慈しみをもって仲間たれ

「あたかも、母が己が独り子を命を賭けて護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の(慈しみの)こころを起すべし」スッタニパータ 蛇の章 「慈しみ」

といったような心持ちでいっぱいになると、いろんな生き物と友だちになれます。

そういえば最近、転居先の玄関に持って行ったプランターの間を覗いてみると、遠隔歯軋りをするまでもなく、小鳥がうたた寝していました。

道徳的な刺蠅(さしばえ) 曙光 357


種の違う生き物の気持ちや感覚を推測するのに利用するのが自分の感覚ですが、動物の中でも特に哺乳類であれば何となく推測しやすいという感じになります。逆に若干構造の異なる爬虫類や魚類などであれば気持ちや感覚は推測はしにくいという感じになります。ただ、基本的に生命活動を行っているということは、生理的な反応としての快さと苦しみというものがあり、それを考えれば、種は異なれど何となく相手の気持ちも理解することができるだろうと思います。

動物の行動の真の意味

Category:曙光(ニーチェ) / 第四書

「道徳的な刺蠅(さしばえ)」への2件のフィードバック

  1. bossu氏へ
     久しぶりの更新、楽しく拝読させていただいております。
     最新の記事を見て思い出しましたが、昔「人間以外を相手にしてそれだけで生きられる方法は無いのか? 地球や自然のために働いてそれだけで糧を得られないのか?」と考えたことがあります。結局そんな仕事は探しても見つからず、このことを誰かに話しても「動物園とかで働けばいいじゃん」と言う人ばかりでがっかりした記憶があります。
     また全然関係ないのですが、現在仏教を勉強し出したのですが、根本分裂以降の仏教の遍歴があまりにもブッダの教義とかけ離れていて、日本の●●宗をやっている人には失礼ですが「ブッダの教えはどこに行った?」と感じざるを得ないですね……。経を聞いて爆笑することの意味がなんとなく解りました。
     今後は自分も「彼らは真剣なんだろうけどね……」という儚い気持ちになりそうです。
     お引越しをされたとのことで、花鳥風月を感じられそうな場所のようで何よりです。bossu氏の心境を考慮するとブログ自体が無くなるかも?と思いましたが。
    祝(かどうかはその人次第ですが)引っ越し&ブログ再開と言うことで、今回はとりとめのない感想だけになりましたが、筆を取らせていただきました。
    それでは失礼します。

    1. いつもご高覧ありがとうございます。

      しばらくインターネット環境が整わないので、更新頻度は少ないですが、本サイトを閉鎖するつもりは毛頭ありませんのでご安心ください。

      さて、それが生産であれ、時間短縮であれ、利便性の向上であれ、生活などを合理化していくうえで、新たに生ずる欲や怒りを観察して、その衝動に足元を掬われないようにしないと、仕事などの「合理化」自体が悪いものかのように思ってしまいます。

      しかしながら自分が関わっている対象が人であれ、その他の生き物であれ、その他現象であれ、次の瞬間にはどこにもない束の間の現象にしか過ぎません。外界を変えてその結果を享受しようとする試みは、非常に遠回りです。

      ちなみに「動物園とかで働けばいいじゃん」と同じような感じで「山にでもこもってこい」と言われたことがあります。
      ただ、その人達を説得する必要はどこにもありません。

      仏教が一般的に言われるような「宗教」ではないことが、すぐにお分かりになると思います。
      日本のそれなどは、仏教のエッセンスの入った「宗教」ですが、それはそれぞれが宗教化しただけのことです。根本的には性質が全く違います。
      「仏教」というフィールドで話をすると、資格や役職を語り出す人がいます。それも根本的に関係ありません。
      いろいろな本にいろいろなことが書いてあると思いますが、あくまで参考に、自らの意識の観察と体感を頼りにしてください。

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