道徳的と自称する

直接間接問わず、道徳的と自称している人は結構います。

道徳的だと自称していたり、はたまた心のなかで自分は道徳的に生きていると本気で思い込んでいる人がたくさんいます。

しかし、ギムキョだからこそ盲目になっていることがよくあります。以前に少し触れましたね。

聞いた話ですが、例えば障害者の人がどこか福祉系の作業所に勤めた場合の賃金は15000円位だそうです。

一ヶ月働いて、15000円です。ここは日本です。貧困国と言われている地域の賃金の円換算ではありません。

どうして、そのような低賃金になるのでしょうか。

それは仕事っぽいことを形だけやっているだけで、人が必要としないものを生産したりしているからです。

商売に精通していないのが高貴である 「消費者的なことすら盲目」より 商売に精通していないのが高貴である

道徳的と言っても、別に世間で「良いとされていること」というだけで、絶対的な善悪というものは、それほど簡単に定義できるものではありません。

落語のような世界観

そこを無理やり絶対的に扱ってしまうと、宗教のようになります。宗教の何が嫌われるかというと、そういう所です。

僕はいかなる宗教にも信仰はありません。解釈違いで「信仰ではないが結局同じようなもの」というようなものもありません。

ちなみに少し触れると、所謂仏教は本来宗教ではありません。

宗教ではないものを宗教にしてしまった人達がいるというだけです。そしてその路線で現役で走っている人達がいるということです。

所謂形而上学的な、定義し得ないものを定義して、その仮定のもとに行動様式を定めてしまっているということです。そしてなぜか確認もできない仮定を絶対視しているというところです。宗教などまあそんなところです。

落語のような世界観が広がっています。

「『お金に執著しないという教え』を広めるために、広告費を捻出しよう」

というような話が多いでしょう。

それは社会や「自分より上位の存在の意志」という仮定を主軸にしているから出てくる考えです。

社会や「自分より上位の存在」を認識しているのは誰ですか?

という問いだけで終わってしまうような話です。

誰かが決めた定めを守ろうという判断基準

誰かが決めた定めを守ろうという判断基準すら、誰かに決められてしまうという構図が一般的です。そこからはなかなか抜けだせません。

しかしそれらは全て虚像です。

断片的に正しいようなことはたくさんありますが、大前提となっていることが正しいかどうかの証明には使えません。

帰納法は、ひとつでも例外があったり、不確定要素があると成り立ちません。

まあ面白いものです。

例えば「これが仏教だ」とかいう議論はあまり意味のないことだということです。それで正当性が「認められたり、認められなかったり」で、浮き沈みがあるのは、苦しいことです。それは考えへの執着であり、無駄な苦しみです。

「誰かの証明や認定」で確定するものではない

どうせ口伝か書物からかはわかりませんが、全て自分の頭で合成したことです。実際にいたとかいなかったとか、言ったとか言わなかったとか、そういうことには意味がありません。

それは絶対者を探しているのと同じことです。

どれが正しくて、どれがまがい物かは、「誰かの証明や認定」で確定するものではありません。

絶対者を絶対者だと認めるのは誰?

「誰かが認めれば、それが正しくなり、その誰かが違うというならば、それは間違いになる」

ということはその判断をする人は絶対者ということになります。

しかしその絶対者を絶対者だと認めるのは誰ですか?

そんなことは多数決で決められるものではありません。

そんな人が仮にいたとしても、それを採用するのはこの「意識」しかありません。

しかしその意識も、他の誰かによって作られたものです。

絶対者を絶対に正しいとするのをどうやって確定するのか、ということです。

そんなことで、矛盾だらけになります。

自分が決めた絶対者を100%正しいと思えないからこそ「信仰」という言葉が出てくるのです。

信じるということは疑っているということです。信じ切れないから無理やり思い込もうとしているという状態です。

ということで、欠陥だらけです。

例えば仏教というラベリングについて、あれこれ議論しても、その結果で何かの理が変更になることはありません。

勝手に変えられるようなものは理ではない

人と人との関係である社会ではそれで変更になることもありますが、この手のものは勝手に変えられるようなものではありません。勝手に変えられるようなものは、理ではありません(真理とは何か?)。

そういうわけで、別に誰と議論する気もありません。話をしたとしても、それで一喜一憂はしません。しかしながら、おそらくどんな話でも論理上でひっくり返すか、限界でストップをかけることができるでしょう。

相手が論理に行き詰まって、その後に感情が暴走しても、それは相手が論理で行き詰まっただけですから、知ったこっちゃありません。こちらは暴走しませんから。でも、別に勝っても仕方ないことです。ですから別に議論もしません。

しかしながら組織を運営するとなればそうもいかなくなるのでしょう。

それは組織の状態と自分を関連させているからです。

組織の状態や、自分の考えが認められた認められなかったで、自分の心が変わってしまうという状態です。

そういうことは無駄だという体感はまがい物ではありません。

そんなことを続けても、いつまでも平穏はやってこないのですから。

信念の書き換えと未来についての不完全な論理構造

道徳的と自称する 曙光 343

Category:曙光(ニーチェ) / 第四書

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