道徳の空位時代

いつか道徳的な感情や判断と交代するであろうものを、だれが現在早くも記述することができようか!― それらは土台のすべての点で設計に誤りがあり、その建築物は改修不可能なことをわれわれは確実に洞察しているとはいえ、ともかく理性の拘束力が減少しない限り、それらの拘束力は日増しに減少するに違いない! 曙光 453 前半

理性で判断すると、たいてい行き詰まりになります。思考が行き詰まった時に、その理屈に「根拠なし」ということが、わかった時点で、自由や解放の方向に向かうきっかけになればいいのですが、どうもまた堂々巡りが始まるくらいしか芸がありません。

それくらい頼りないものです。

しかしそこで感じた感傷的な感情は間違いではありません。

ただその感情に足元を掬われるかどうかの問題です。

「居直ったような人」にはならないように

世の中には居直ったような人がたくさんいます。特にその人達を罰する必要はありませんが、自分だけは同じようなことをしないように気をつけなくてはなりません。

昔から、ブラック要素のある会社やその会社での仕事などについては、いくら肯定的な解釈ができようとも、すべて否定しています。そんなものに存在意義はありません。

しかし、「それはないだろう・・・」と、ブラックな様を急に突きつけられた場合、勤め人だった場合ならどうしていいかわからない場合もあります。その時に、自由度が高いほど、すぐにその環境から抜け出すことができます。だからこそ、所有しているものや属性は少ない方がいい、という側面もあります。

まだ個人事業主や会社オーナーなら勤め人よりは自由度が高いでしょう。しかし「リスク」と「責任」のようなものが多いような印象があるとは思います。

しかしそのリスクというものは、リスクではありません。

「家庭や従業員のため」を理由にして心を汚してはいけない

家庭などがあればそれが気になるでしょう。会社の代表者なら従業員などのことも気になるでしょう。しかしそれを理由に、心が汚れるようなことをしてはいけません。

それを言い訳にして、何か後ろめたいようなことをしてしまうなら、家族を捨てることです。そのようなことをしなければ会社が潰れてしまうようなら、そんな会社は清算することです。

それを失いたくないというのは、その対象自体というよりも、自分に付いているその属性を失いたくないということです。つまりはある意味でのプライドのようなものです。

「私達家族のために犯罪を犯してください」と、懇願する家族なら捨てましょう。そんなものは要りません。

誰かやめろよ

勤め人時代に実際にあった話です。

今でも鮮明に覚えています。その時の虚無感はひどいものでした。

あるお客さんのところへ言った時のことです。その時は上司と二人で行ったのですが、通帳を確認して驚きました。

○○生命

△△生命

□□証券

見るも無残な光景でした。高齢者の方です。詳しくは書けませんが、月の収入以上に引き落としがあり、それまでに貯まっていた預金を少しずつ食いつぶしていっているような状態でした。

どんなものなのか詳細はわかりません。確かに貯蓄性のある金融商品もあるでしょう。

その時にたくさん頭の中をめぐりました。

「営業成績ってなんだろう?」

「これはこの世の中に必要なのだろうか?」

「こんなことが仕事と呼べるのだろうか?」

「誰も止めることなく、『それならば私もひとつ』と、意味のない経済活動をしたのだろうか?」

「これは経済活動なのだろうか?」

「何のための仕事なんだろう?」

「誰の何のための?」

そんなことが頭を駆け巡っているとき、上司が「引き落としに列挙された会社」と同じことをやり始めました。

若かった僕はそれを止めることはできませんでした。

若かったからと思いたい、というのが本当のところ、僕はそれを止めることができませんでした(といっても今でもまだ若い方に入るでしょう)。

それでも、なぜか翌日には上司と二人で「営業成績」の褒賞をもらっていました。

その時にどんな顔をすればいいのかわかりませんでした。

「僕はこの社会に出て、何をしているんだろう?」

その思いをしっかり確認したのなら、いずれそれは大きな原動力になります。

その時に、自分が守ろうとしていたのは自分ではありませんでした。

自分の中にある、虚像のお化けに脅されていただけでした。

それが虚ろなものだと気づいたなら、そんなところにいる必要はありません。

むしろ一秒でも早く飛び出すというのが賢明でしょう。

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道徳の空位時代 曙光 453

Category:曙光(ニーチェ) / 第五書

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