道徳の歴史における狂気の意義

狂気という言葉は、「みんながやっていないことをやっている」という意味で、常識はずれの範疇にあります。

その常識はずれの中でも自分に害がありそうなものは「狂気」になり、自分の利益になりそうというようなことは「偉業」などと言われたりします。

無害というかほとんど自分とは関係なさそうならば、印象は「変な人」くらいのものです。

それくらい人の評価と言うものは自己都合によって変化してしまいます。

かつてのナチスも、暴力的な支配ではなく民主主義によって動いていたので、その時代のドイツにおいては彼らの行動も国内の評価としては偉業でしたが、客観的に見ると狂気です。

「危害がない」と「正気」は関連しない

道徳というものに採用される時に、根拠はよくわからないものの「まあいいか、特に悪いことではない」というようなことが基準になります。

そしてその道徳にかなっていればそれでよし、ということになりますが、僕にしてみると、先祖の供養と言って法外なお金を坊主に渡していることも狂気であり、「勤行」といわれることも狂気なら、「毎日お勤めしてるなんて偉いね」というような言葉も狂気です。

本来「危害がない」ということと「正気」は関連しません。危害がなくても狂気は狂気なのです。

何かしらの宗教の教義について、それが「特段危害のないもの」であるからといって正気であるとは言えません。

危害がないので好きにやってもらう分には好きにしていただいてもいいですが、正気か狂気かで言えば狂気と判断せざるを得ない場合もあるはずです。

危害のない「宗教の教義」

例えば、誰かにいきなりやってこられて、ずっと「感謝してます、感謝してます、感謝してます」と言われ続けたりした場合、どう思うでしょうか?

某カルト教団のように「罵声をください!」と道端でお願いされた時にはどんなことを感じるでしょうか?

これらのことをされるにあたって、特に危害はありません。しかし狂気ではないでしょうか?

カルト宗教が「供養するぞ供養するぞ供養するぞ」と連呼していたら狂気だと感じ、一方で、汎く認知されているような伝統的宗派の人が、「先祖の供養が必要です。30万円払ってください」と遠回しに言ってきた場合は狂気と感じないのでしょうか?

「どうして狂気ではないのでしょうか、完全に狂っています」と、僕は断言しますが、このような事を聞いたときに、仮に怒りが生じるのであれば、何かに執着している証拠です。

それはまあいいんじゃないでしょうか、というような意見があるとすれば、その裏には「別にそれをされていても自分に危害があるわけじゃないし、その人の心の支えになるんならいいんじゃないですか」というようなことですが、ポイントは「自分には危害がない」と「狂気」は関連しないというような点です。

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自分を苦しめるフィルターの一つ

確かに自分には危害が特にはないので、どうでもいいことといえばどうでもいいことですが、それを道徳として認めている根拠として「世間が認めているから」というような前提が少しでも残っているなら、それが自分を苦しめるフィルターの一つである、ということです。

「世間が認めているから正気の範疇」ということは、何かしらの判断に対して、世間の承認というものを必要としているということであり、そうしたフィルターは一種の「無駄な条件」となりえます。

「それは狂気だが、自分には関係ない」との差

「世間が認めて」、「自分には危害がない」ものは「正しい」という前提や、「それは狂気ではない」というようなことが社会的思い込みです。

「それは正気の範疇であり、また、自分には関係がない」というものと「それは狂気ではあるが、自分には関係がない」というものは似て非なるものです。

「自分には関係がない」という「結果」というか「結論」としては同じでも、意味合いは少し異なります。

「それは狂気だが、自分には関係ない」というものと少し異なります。少しの異なりですが、かなりの差があります。

道徳の歴史における狂気の意義 曙光 14

Category:曙光(ニーチェ) / 第一書

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