身近なものがますます遠くなるわけ

家族がいる人には、「家族」というものは嫌でも身近にいてしまいます。離れて欲しくても近くに寄ってきます。

「家族には寄りつかれる」という属性を持っていますが、家族だからといって気が合うかどうかは別問題です。ほとんどの場合は気が合わないでしょう。気が合いすぎるというのも、自分よりも子どもや両親などを優先してしまう要因になるので、適度な距離を置かねばなりません。

近くにいる者同士ほど軋轢が生じるのは当然のことです。国家間一つとっても近隣諸国とは仲が悪いのに、遠く離れた国とは仲がいい、ということはよくあることです。家が隣同士の人たちはご近所トラブルが起きたりしますが、遠く離れている人とはご近所トラブルのようなトラブルは起きません。

「適切な距離」と「近づきすぎることで起こる軋轢」

人と人との距離を筆頭に、全てにはある程度最適な距離というものがあります。それを過度に近づけようとすると、どうしても争いになります。

「適切な距離」を超えて近づきすぎてしまうと、軋轢が生まれてしまうことがあります。

そのような時に人が取る方法は、何か倫理観や道徳などを持ちだして、行動を強制させることです。時に無理に近くにいるように強制したり、また一方で近くにいるからこそ起こる軋轢を倫理道徳で押さえつけるいう感じです。

しかしそんなことをするよりも、そもそも近寄らずに適度な距離を保っていれば争いも起こりません。適度な距離を保つということは相手を軽視するということではなく、こちらも相手も双方が怒りなどを生じさせないための方法論です。

一緒に近くにいる必要のある関係性というものは、社会の洗脳であって、そんな基準はどこにもありません。

養子との関係性

という僕にはうさぎの養子がいます。彼との生活はもうすぐ6年になりますが、何を隠そう僕はうさぎアレルギーなのです。

Kさんちのうさちゃんと我が養子

アレルギーが原因で養子にもらったようなものです。

しかし、僕もうさぎアレルギーです。

彼とずっと一緒にいたい気持ちはありますが、特に毛の生え変わりの時期になると、数分で鼻水と目のかゆみ、そして十数分で喘息になります。換毛期以外でも長時間抱っこすることはできません。

最初はアレルギー反応はなかったのですが、徐々に喘息の徴候が見られるようになりました。それがどうしたというのでしょうか、喘息になるだけです。

目の充血で目は霞み、鼻水は止まりません。それがどうしたというのでしょうか。マスクをして目薬でもさせば、数時間で収まります。

それでも、やはり長時間接することはできません。

近づきたいのに近づけない、身近なものがますます遠くなっていく一例です。

身近なものがますます遠くなるわけ 曙光 441

Category:曙光(ニーチェ) / 第五書

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