誰のために真理は存在するか

今までは、誤謬というものは慰めになる力であった。現在人々は、認識された真理に同じ効果を期待して、いささか長い間すでに待ち受けている。真理が他ならぬことを―慰めることを―果たすことができないとすれば、どうだろうか? 曙光 424 前半抜粋

ニーチェには残念ですが、真理は、誰のために存在するという性質のものではありません。誰かのために用意されたようなものは真理ではなく妄想であり、誰のためということことでもなく、かつ誰にでも確認できることこそが真理と呼ぶにふさわしい理です。

真理という言葉

真理という言葉はかなり「真なる理」であるはずなのに、結構曖昧に使われたりします。

真理というからには、それが絶対確実で誰にでも検証可能な理(ことわり)であるはずです。しかしながら、「聖典の記述は真理である」という謎の妄想によって、「書いてあるから真理なんだ」としている人たちもたくさんいます。

「聖書には真理が書いてある」とか「経典に書かれていることは真理である」というようなことを平気で言う人もいますが、そうしたものに「書かれていること」自体は何の根拠にもなりません。なぜならその根拠を根拠とするのはその人自身の基準だからです。

しかしながら、どのような書物に書いてあったとしても、またどのような人が言っていたことであっても、法則として、理として自分で確認できたり、思考実験で納得できたりできるものであれば「真なる理」という感じになってきます。そして主義や思想であれこれ変更できるようなものではない理、それが真理です。

ただ「洞察がまだ奥深くまで届いていない」というケースも多々あります。

「目を開ければ何かが見える」ということは一つの真理ですが、何かが見えているということで「見えている対象は存在している」とか「それを見ている『私』は存在する」というような感じについては、「存在の定義」や「存在の証明」がはっきりとしていないことでもう少し深い洞察と思考実験などが必要になります。より哲学的に、形而上学的に考えて考え抜いてもまだ追いつかないということも多々あります。

しかしながら、例えば瞑想などで神秘体験をしたところで、そうした体験の間に起こった認識などは「即時的で、客観的証明がなくともそれが正しい」ということになりますが、その体験の言語的意味付けなどは真理とするには早急です。

例えば、誰かと手をつないで「掌が温かくなった」とか、瞬間的に「好意を持った」という瞬間的な認識そのものは証明なく正しさを帯びてきますが、「これは運命の出会いなのだ」というような言語的意味付けは真理の範疇ではないということになります。

真理とは何か?

さて、「○○のため」に関連される命題は、効用や効用への期待であって、純化されたものではありません。

慰めへの期待、ということは「慰められなければならない」ということになりますが、不安から安心へ、というような方向で考えてみましょう。

慰めへの期待 不安から安心への期待

楽しいことが起こるとしばし不安を忘れることができる事ができます。もう少し細かく言うと、楽しいことが起こっていると頭が判断して、楽しいという感情が起こって、それを心が捉えている状態ですね。

しかし、その状況が去るとまた不安がやってきます。慰めへの期待、というのはこの繰り返す不安感を何とかしてくれ、ということで、何とかしてくれる存在を期待し、それに好かれるように努力するといったトンチンカンを生み出しました。

それはすごい存在に頼ろう、すごい人についていこう、という宗教的なことだけではありません。

例えば慰められようとして、パートナーやペットにすがろうとするようなことも同じことです。構図としてはあまり変わりません。ただ、そんな相手も、ずっと同じ態度をとってくれる可能性は不安定な上に、いつか別れることになります。生きている時に別れるか、どちらかが先に死んでしまいます。

こうして、別れてしまうことは確実ですから、それがひとつの「真理」なのですが、その真理は、何か慰めになるでしょうか。

相手が嫌いな人なら、「いつか別れることができる」という真理は慰めになるかもしれませんが、好き嫌い関係なく「いつか別れは来る」ということになります。

「愛別離苦」愛するものと別れる苦しみ

楽しいことで一瞬不安を忘れても、またやってくるということは根本解決にはなっていないということになります。

誰かにすがってもその相手に好かれる努力を継続しなければならないのなら、その努力が苦しみです。嫌われるかもしれないという不安感がついてまわります。

不安感を消すために好かれようとしているのにそれが原因で不安感が募ります。それでは何のためにしているのかわかりません。

誰のために真理は存在するか 曙光 424

Category:曙光(ニーチェ) / 第五書

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