認識の誘惑

学問の門戸をのぞきこむことは、情熱的な精神の持ち主たちにとって、魅力中の魅力のような働きを及ぼす。そしておそらく彼らはそのとき空想家に、うまくいったときには詩人になるであろう。認識する者たちの幸福に対して、彼らはそのように激しい熱望を抱く。 曙光 450 前半

ニーチェはここで、 「妄想を消失させよ!そのとき《ああ悲しい!》もまた消失してしまう、そして《ああ悲しい》とともに、悲しみもまた消失する」(マルクス・アウレリウス)と、マルクス・アウレリウス(ストア派の哲学者で、2世紀後半のローマ皇帝)を引用しています。

空想家や詩人になるのならまだマシですが、どうも哲学を「お勉強」する人は、「哲学を知っていること」に自惚れる傾向があります。

なんだか難解そうな専門用語を使うことが大好きですから、本当に意味を限定するためにそういう言葉を作ったり使ったりしているのかは疑問です。「かくあるべし」「かく語りき」もそうですね。この点は思想家の盲目で触れましたね。

学派と哲学

学派といえども、なぜそんなに枝分かれするのか、それは掴みようのない事柄をひとまず空想的な論理で、なんとか限界まで考えようとするからです。考えても確認が取れない、というよりも取りようがない、だからたくさんあるということです。

そしてその考えにしがみつき、執着するからこそ「学派」などになるのでしょう。しかし特に哲学の分野においては、そんなものは役に立ちません。同じようなことを繰り返しているだけで、いつまでも限界を超えることができないからです(一本槍に一辺倒)。

「こちらの考えのほうが正しい」

「いやこちらのほうが正しい」

とお互いに論理合戦をしますが、どちらも最終的には論拠が不明瞭になり、決着はつきません。

その前に、なぜ「自分の考え」が正しいと相手に認めてもらう必要があるのでしょうか?

裁判での争いなら、裁判官という人がいて、説得して納得してもらえれば、ある種のすごい力を持った存在の強制力のようなものを使うことができますが(といっても結果は金銭のやりとり程度です)、哲学はもっと宙に浮いた分野です。誰かにジャッジしてもらうということができません。

誰かの考えを引き継いでいるだけで何も考えていない

学派学派と言っても、体育会系の延長で、誰かの考えを引き継いでいるだけで、何も考えていません。

あくまで、先人たちの意識が集合しただけで、その情報が意識の中でグルグル周り、何か結果的なものをはじき出しているにすぎません。

派閥を作って、ヒエラルキーを形成する必要性はどこからやってくるのか?

さらにいうと、どうして学者の中に先輩後輩などの力関係が必要なのでしょうか。派閥を作って、ヒエラルキーを形成する、それは学問の世界には不要です。特に哲学には持ち込んではいけません。本来は持ち込み得ないものです。持ち込み得ないものを持ち込んで、学問をダシにしているだけで、「すごいと思われたい、偉そうにしたい」という体育会系の延長です。

なぜでしょうか。

「人に褒めてもらわないと、自信が持てないの♡」

ということです。

要は「一気コールとは何か?その本質とはなにか?それはいつから始まったか?」

というような、それを知ったところで、どうにもできない事を延々と調べて考えているようなことです。

それを「一時的にアルコール類を多量摂取する場合における、本人および周囲の心的動機と言動・反応および相互間の影響」などと言っているようなものです。

そんなことはタモリ倶楽部で十分です。

認識の誘惑 曙光 450

Category:曙光(ニーチェ) / 第五書

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