覚えやすい誕生日

なぜか未だにいろんな人の誕生日を覚えています。

覚えやすい誕生日の人が多いのもその理由ですが、やはり身近な人の誕生日は嫌でも覚えてしまいます。

覚えようとしたことはありません。

でも、未だに覚えています。

誕生日が何かしらの祝祭日と同じであったり、月の始めや終わり、ゾロ目といった感じであれば覚えやすいですが、個別に覚えるのではなく、一種の時系列として様々な人の誕生日を覚えておけば、記憶自体は容易になったりします。

祝う日

誕生日は非常にわかりやすいもので、その人固有の日が指定されています。

その他、なぜか「祝おう、何かプレゼントをあげよう」という日が定められています。

誕生日はその人が生まれた日なので、その日まで歳を重ねてこれたということを祝うのはわかるような気がします。

そうした感じで元日は祝われる意味がわかるような気もしますが、根本的に祝うということ自体がどういったことのなのかがよくわからない上に、「一体何を祝っているのか?」と思わざるを得ないような祝う日もあったりします。

また、祝う日の名称に、一種の主義、思想を感じてしまうことがあります。「その名前を用いることで、主義や思想を植え付けていこう」と思えてしまうような感じです。

敬老

「敬老」

年上が偉いという思想の表れのように感じてしまいます。

ちなみに直接的な祝う日ではありませんが、「敬老の日」というのがよくわかりません。

そんな日を制定したのは確実に僕より年上の人です。

「私たちを敬ってください」という日を自分で作るとはなかなか滑稽ですね。

上下関係万歳の体育会系の匂いがします。

「高齢者の日」でいいのではないでしょうか。

もしくは「おじいちゃんの日」「おばあちゃんの日」でもいいのではないでしょうか。

母の日

もうすぐ父の日です。そして少し前は母の日でしたが、一応これらの日には、なにかしらのプレゼントを贈ることにしています。

商業主義的な思想の餌食、というわけでもなくて、いつもなにかしら想いを形にしたい、できることなら毎月でも、というようなことを思っていると、これらの日は、「もらいすぎて困る」と感じてしまうかもしれない相手の変な気苦労もいらないタイミングということになるので、贈ることにしています。

それはそれで、個人的な趣味みたいなものなので、好きにやらせて頂いていますが、僕が中学生の時です。

母の日が過ぎてすぐくらいの日に、ある女の先生が「みなさん母の日は、なにかプレゼントを贈りましたか?おかあさんに感謝してますか?」といった旨の一言から授業を始めようとしました。

世の中にはお母さんがいない人もいます。

離婚などで一緒に暮らしていない、もしくは死別したケースもあります。

クラスに何人かそういう人がいたので、僕は怒ってしまいました。

「いない人はどうしたらいいんでしょうか?」

「気安く商業主義的なことを言うな!全員に土下座しろ!」

結局土下座はしませんでしたが、「軽率だった」と、認めました。

お母さんのありがたみをわかるようになれば、教師のありがたみもわかるだろう、自分もお母さんなので、敬われたいなど、自尊心を満たすようなスケベ心で他に気が回らなかったのでしょう。

母の日、という日があってもいいですが、やはりそれを、その日の行動を人に強制しようとすることは時に誰かを傷つけることになります。

母の日を制定した人は、そこまで考えて決めたのでしょうか。

一度お話をうかがいたいものです。


誕生日の覚え方

友人や昔お付き合いしていた方々、果てはその親御さんの誕生日まで記憶していたりします。もちろん日付として誕生日を覚えているということになりますが、やはり基本的にはその日に関連した思い出がある場合はよく記憶しているという感じになります。また一年を通じて大体誰と誰が何日違いか、という感じで覚えていたので、数百人単位で覚えてしまっていたりします。

記憶の底に貼りついた、もう一枚の薄い記憶

Category:さよなら私 / 自分なくし

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

日本語のみ