自由精神の背教者

一体敬虔で信心堅固な人間に対して嫌悪の情を抱いた者があろうか?むしろわれわれは静かな尊敬の念を抱いて彼らを注視し、このすぐれた人間たちはわれわれと共通の感じをもたないという遺憾の念は抱くけれども、彼らのことを喜びはしないか?しかし、かつてあらゆる精神の自由をもっていたのに、結局は「信心深く」なった人に対する、あの深刻で、突発的で、理由のない反抗心は、どこから由来するのであるか? 曙光 56 序

自由精神が語られる上では、自由意志の有無が哲学的な話題となりますが、根本的に自由意志はないと思っておいたほうが賢明ですし(自由意志と洗脳)、哲学的な自由意志と社会学的な帰責の問題としての自由意志を混同することはできません(自由意志を哲学と社会学的帰責から紐解く)。

下手に人と話すことよりも、静かに思索したり、読み継がれている良書に触れたり、時に自然と対話するかのように、目の前に集中するというということが19歳位からの基本的な過ごし方になっています。

宗教にハマる人は、先の投稿で言う「被支配」に快感を覚えるタイプの人ではないでしょうか。

自分のみじめさをこえて高まること

その前提には、「思考することへのストレス」がどこかにあるような気がします。

電車の中のスマートフォン

そう考えてみると、電車の中でスマートフォンを触っている人は、そのタイプの人かもしれません。

「考えることが面倒くさい」

という感じです。

少し前電車に乗ると、乗客の95パーセントくらいがスマートフォンを触っていました。

そのうち1割か2割位は、ただ音楽を聞いているだけのようでしたが、まあすごい数のスマートフォンいじりです。

本当に心底楽しんでいるとか集中しているというよりも、いくらかの焦燥感すら感じます。そしておそらく操作に慣れていないであろう年配の方の場合は、目を見開き、人差し指をピンと立ててひたすら画面を撫でまくっているだけ、という感じでした。

自由意志で選択したというよりも

その行動の動機としては、暇のストレスや思考することへのストレスを回避するという要素がありつつ、自由意志で選択したというよりも、それが最も簡単であるがゆえに選択されただけという感じもします。

やりたくてやっているというより、それが最も簡単だからこそ選ばさせられているという感じです。制限がないという意味では自由ですが、本当に心の底からやりたいことだとも思えません。

といっても、現状それが一番快適だと判断したからこそ、それを行っているのでしょう。

ここでいきなり脱線ですが、電車内のストレスが以前にも増しているような気がしていました。

その理由を考えていたのですが、おそらく通信による電波の影響ではないかと予測しています。

異常な密度で電波が集中

通信をしない音楽再生ならば大丈夫ですが、アプリなどでデータ通信を行っているスマートフォンの台数を考えると、異常な数、異常な密度での電波が集まっているはずです。

これが脳に影響を与えているのではないかと思っています。

ちなみにラット実験では、携帯の電波は脳に影響はないということになっていますが、ラットと人間の大きな違いである「大脳新皮質」への影響がないということが立証されたわけではありません。

個人的な感覚としては、携帯の電波がほとんど無くなる高原や高山に行くと頭がスッキリします。だからやっぱり携帯は嫌いです。

内容も非生産的

そして、さらにひどいのがスマートフォンで操作している内容がたいてい頭を使わないようなことばかりです。

何より焦燥感を感じます。

「暇をつぶしたい」

そういった焦りです。

でも、どうせあんな小さな画面で知れる内容など知れていますし、効率が悪い。そして、電波でさらに頭が悪くなっていくのではないかと思っています。

電車に乗るのが嫌になってきました。

自由精神の背教者 曙光 56


仕事等々への若干の利便性からデジタル機器を利用はしていましたが、スマートフォンをはじめ、インターネットに関係するようなものを全て遮断すると意識がどう変化するのかということを試してみました。

なるべく意識しないように努めて

Category:曙光(ニーチェ) / 第一書

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

日本語のみ