義務としての偽装

親切ということは、親切に思われようと努める長い間の偽装によって、最も多く発展せしめられてきた。偉大な力が存在したところではどこでも、ほかならぬこの種の偽装の必然性が認められた。 曙光 248 前半

特に偉大な力でなくとも、偉大な力かのように見せる集団での圧力と、そのイメージからの習慣による「疑いも呼び起こさない常識」が、親切に思われようとする一種の偽装的な生き方をするように、自然の中に溶け込んでいるかのようになっています。

「親切さ」は恣意的な別の目的のために偽装されることもあります。しかし一方でそうした可能性ばかりに囚われていると、すべてが偽装された親切だという疑心暗鬼が生まれたりもします。

偽装された親切

義務教育の間ですら、多数の大人対一人の未成年という力関係によって、本心ではない行動を強制されていきます。そしてその強制は、倫理観・恥ずかしさを先に植え付けて、あたかも内発的な動機かのように思い込ませることから始まります。

聞きたくなる話をする前に、聞きたくなってしまう話としての工夫や話題を見つける前に、「聞く体勢になりなさい」と、自分の話を聞かせようとします。これは会社の朝礼でも同じことです。聞きたくなるような話なら、嫌がっても聞きに来るはずです。よほど聞きたい話なら、それが遠方であってもわざわざ聞きに行くほどです。

自分の話のつまらなさを、棚に上げて相手のせいにします。これは非常に情けないモテない人がやることです。話がつまらないので、自らお金を払ってまで自分の話を聞いてくれる人を探すようなことをしているのだから憐れですね。

親切を偽装する人

親切は、それが「見返りを求めない」という属性を帯びてこその親切であり、例えば親切な行為をして、お礼の代わりに罵声が飛んできたとしてもそれをさらっと流せるくらいでなければ親切ではありません。

ボランティアというものは、無償で行うものですが、これを変に評価してしまい、評価のためにボランティアをするという人が出てきました。

推薦入学のアピールポイント狙いや、ブラック企業が慈善団体に寄付しているようなことです。「親切の偽装」は見渡せばたくさんあります。

そんなことをして、何がしたいのか、それはまさに「親切に思われようと努める」ということであり、「いい人だと思われよう」ということであり、「いい人と思われたほうが得だ」ということであり、裏を返せば、「いい人だと思われないとマズイ」ということです。

義務的な親切と善悪

このような勘違いを呼び起こすのは、ほとんど教育によって偏見を植え付けるからです。「なぜなのか?」という問いに答えずに、「絶対的に善いことだ」と、深く考えぬまま教えてしまうことに問題があります。

それは善悪基準ではない上に、その親切、親切な行為というものの基準を勝手に決めて、勝手に強制しているということに気づいていないでしょう。

「善いこととはどんなことか?」

この手の問いは、文献が何とか残っていると推定される紀元前数百年前から繰り返し議論されています。文献などが残っていないだけでそれより以前から問われてきた命題でしょう。

「呼ばれて返事をすること」一つとっても、呼んだ人が相手を呼んで、呼んだことが相手に伝わっているかどうか、ということを確認したいという気持ちを持っていて、それに応えるということです。善い悪いではありません。

コミュニーケーション、つまりは意志の伝達という意味では、目的を達成できているかという点で、成功と失敗の解釈の基準にはなります。

しかし、善悪ではありません。社会的な合理性を考えれば、相手の意志に応えることは、相手との関係性を保つにあたってプラスに働くことです。ただ、「善い」ということではありません。善悪に関しては無属性です。

相手との関係性を良好に保ちたければ返事をした方がいい、という一種の仮言命法的な部類に入ります。

「声が小さい!」と体育会系は怒ることがありますが、小さくても声が届いている、もしくは返事をしたという行動を認識したから「声が小さい!」という言葉が出てきています。

呼ばれて返事をしなくてもいいのに、相手を慮って返事をしたのに、まだその返事の仕方にまで文句をいうという横暴さです。

それに屈してしまうのは、まさに「偉大な力が存在したところではどこでも、ほかならぬこの種の偽装の必然性が認められた」という点で、偉大な力だと認めてしまっていることになります。

ただ、その相手を軽くあしらう手法として大声で返事をするという行動も取れます。その相手を軽視して、「こうしておけばあの人は満足なのだ」と思ってする行動もありえます。その時も一種の「偽装された親切」ということになります。

偽装された親切だという疑心暗鬼

親切を偽装ばかりしていると、他の人が本当に親切心でしてくれた行動も、「これは偽装された親切ではないだろうか」という疑心暗鬼が生まれる可能性があります。

本心ではやりたくもない「学校をあげてのボランティア」などを半強制してしまうと、後にこのような疑心暗鬼が生まれるでしょう。躾と称して、意味付けのない、本人が納得もしていない表面上の行動を強制ばかりしていると、それは「親切心を偽装するように教育している」ということになり、その結果、他人からの親切も、ウソではないかと思ってしまう思考が働くこともわかって教育しているのでしょうか。

その疑心暗鬼は、本当に親切にしてくれる人の行動すら無駄にしてしまいます。しかしその原因は、親切を偽装することを教えてしまったことにあるということを知りながら、人にモノを説くときは慎重にならなければなりません。

義務としての偽装 曙光 248

Category:曙光(ニーチェ) / 第四書

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