美の増大

なぜ美は文明とともに増大するのか? 曙光 515 序

感性やセンスなんて言われるものは、本来、今ある具体的な何かの出来などではなく、それよりももっと高いレベルで、抽象的な領域で形を作れるかどうか、というようなことで、素人レベルの「センス」などまったくあてになりません。

なんだか最近やたらと「パクリ曲」の記事にアクセスが多いようですが、まあ曲のパクリ云々はさておいて、「具体的な何か」が「その時代にピッタリとはまっただけ」で脚光を浴びてしまった人たちは、若干の哀れさがあります。

二度売れる必要がある

たまに芸事の世界は「二度売れる必要がある」というようなことが言われます。

要は、一発目は時代の流れのおかげである可能性が高いということです。元々持っていた性質がたまたま時流にバッチリ合えば一回は売れるという感じです。

しかし一度売れた後に「また新しい価値を作っていく」ということになれば、現状売れている「具体的な何か」より高い地点での感性が必要になります。

お笑いで言えば、ただ単に「あるあるネタ」がその時代に適していたとして、「あるあるネタの帝王」みたいな感じになってしまっては、時代の流れとともに沈没していきます。

あくまでその上の領域、「笑い」自体の感性があり、それを具体化したときのひとつの形としての「あるあるネタ」をやるのでは、根本構造が大きく異なるのです。

「もうカードは出尽くしたのに、また求められても出しようがない」

そんな時、人は同じようなものを作るか、パクリ行動に出ます。パクるつもりがなくても、頭の中の材料があまりないので、結果的にパクったような感じになってしまうのです。

その前提として、「一段上の段階でのセンスを作ってこなかったから」という原因があると言えるでしょう。

こうした感性を確立していくためには膨大なデータが必要になります。そして、データ収集とともに、自分塾を開いていく必要があります。

素人のセンスは一番あてにならない

広告などのデザイン関係の仕事をしている人が口をそろえて言うのが、「相手が素人の女性担当者の時は意見が二転三転する」ということです。

「友だちに聞いたら、なんか違うと言われた」

といって、確定しかけていたデザインがひっくり返る、ということです。

だいたいその友だちも「センスがいいと言われたい」というスケベ心から、何かしらダメ出しをしなくてはならないという強迫観念のもっていて、無理にケチをつけているに過ぎないというのがその実態です。

電◯の広告の影響を一番受けやすいのが、そうした層です。

直近に見たものに影響を受けやすく、抽象的な感性が出来上がっていない事が多いのです。

昔聞いた話ですが、せっかくモリサワフォントを使ったりしたのに「なんか違う」と言われ、すごい数の校正の後、結局「MSゴシック」になったという事もあったそうです。

見慣れているフォントのほうが落ち着くのでしょう。

女性でも才能のある人はたくさんいますが、才能のある人は概ね「若干ブスである」という特徴を持っています。

街に繰り出すことや合コンなどに目もくれず、同じような年齢層の男性や女性から「カワイイと言われたい」という他人からの評価をさておいて、自分の世界に没頭する人が多いからではないかと思っています。

逆に友達からの意見や雑誌の情報、今では低レベルのメディアサイトやキュレーションなどの記事を参考としている人などであれば絶望的です。

意見がコロコロ変わります。

それは、今目の前にある物を判断するにあたっての、抽象的なところでのセンスが磨かれていないからです。

こうしたセンスを磨くためには自分塾を開いていく必要があります。

感性が確立していれば、人の意見など必要なくなります。

もし人に意見を聞くとしても、もっと高いレベルでの議論になっているでしょう。

プロ同士が集まると、それぞれこだわりが強いので、すごく長時間の会議になるのではないか、と思う人もいますが、そんなことはありません。

確認と微調整程度で済むため、数分で終わってしまうこともあるのです。

美の増大 曙光 515

Category:曙光(ニーチェ) / 第五書

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