緊張と弛緩から観る「今」のあり方

心を語る上でよく緊張と弛緩がテーマとなることがあります。リラックスするための筋弛緩法というものもありますし、笑いの要素の一つとして、桂枝雀氏提唱の緊張の緩和理論というものもあります。

緊張があってそれが弛緩する、つまり緩むということですが、その瞬間に人はリラックスし、人は笑うということになります。

そこでよくよく考えてみたいのが、緩んでいる時は文字通り安穏の状態にあり、イコールで幸せな状態にあるということです。

緊張と弛緩や緊張の緩和理論においては、相対的に緊張と「ゆるみ」が対比された上で語られていますが、「ずっと緩みっぱなしならどうなのか?」ということについて考えてみましょう。

「弛緩」という概念は、引っ張られていたものが緩むということを意味していますが、根本的に「引っ張られすらしていない状態」というものを想定してみましょう。

一見心理学的なテーマになりそうですが、ここではそれをさらに超えて紐解いていきます。ということで哲学テーマです。

まずは、わかりやすそうなところから触れていくことにしましょう。

緊張の緩和

笑いの要素の一つとしての緊張の緩和理論は、面接などでありがちなガチガチの緊張というものも含みつつ、推理小説的な「どうなるんだろう?」というようなものも緊張として扱い、それが一連の流れの中で解き放たれるように緩和する時、人は笑うというようなことを語っています。

この理論は噺家の桂枝雀氏が語っていたお笑い理論として有名ですが、爆笑とまではいかなくても、緊張が緩んだ時、人は微かに笑顔になったりします。

初めて会う人達が会議室に並んでいて、無口な状態でいると緊張が走りますが、誰かが話しだしたり、その会議のキーマンが仕切りだしたりすると緊張が緩和されて笑みが溢れるという感じです。

まあ端的にアイツこと自我は恐怖心をベースにしていますから、相手の情報が入ってくれば入ってくるほど、事の真相が分かれば分かるほどに安心していくというのがその奥にある理屈になります。

同郷の人だとわかった瞬間に笑顔になるのも同じような理屈が働いています。「得体の知れない人間ではないか?自分に危険が潜んでいるのではないか?」という緊張が解けていけば解けていくほど安心していきますし、緊張との対比の中でそのギャップが大きければ大きいほど、安心感を発端とした笑いの大きさは大きくなります。

そう言えば私事で言えば、オムライスを食べていて口の周りがケチャップだらけになった時に一気にその場にいた人たちとのラポールが形成されたというような経験があります。

その時期は哲学マニアであり、いつでも小難しい事を考えていたのである種警戒されていましたが、口の周りがケチャップだらけになったということで、緊張が緩み親和状態が生まれました。

そうした人間味が出た時に、相手の緊張は解けて笑いが起こり、友好的な関係を築くきっかけができたという感じです。

その場では笑いが起きましたが、その笑いの大きさは、自分の気難しさとのギャップの上で大きさが決まると思っています。

これは例えば、「鼻毛が出ている」ということを例として考えればわかりやすいかもしれません。

バカボンのパパが鼻毛を出していることは普通です。

しかし、例えば男性アイドルや世界的な宗教指導者、カリスマ経営者や大物政治家の鼻毛が出ていると、緩和具合が変わってきます。

その奥には「抜け目なさがあれば私を騙したり傷つけることもできるかもしれないが、こんな所に抜け目があるのだから私を騙すような絵は描けないだろう」というような安堵があります。

だからといって、わざとそうした笑いを狙い、道化を演じた場合は、「恐れられる眼」で触れているような「人間失格における太宰治氏」のような事が起こり得ますので、わざとやることはやめておいたほうがいいでしょう。

僕の友人に多いのですが、概して少し天然ボケ要素のある人は、あまり敵を作りません。

その裏には、「こんなに抜け目だらけの人が私を騙したり、論理責めしたりすることはできないだろう」というものがあるのでしょう。

体の緊張と弛緩

たいてい精神的にイライラしていても、温泉に浸かり、マッサージでもしてもらえばずいぶんと気が楽になるものです。

肩・首・腰はもちろんですし、顔や頭、掌や足裏などがほぐれた時には何だか「あのイライラは何だったのだろう?」というような感想を持ちます。また、体が冷えている時に温かいものを飲んだりして腹が温まると自然とほっこりしたりします。

歴代の哲学者などでも、結局ストレスなど体の緊張にしかすぎないというようなことを書いていたりします。

だからこそ体の緊張を弛緩させれば気持ちも楽になるということが説かれたりします。

それはそれでかなり正鵠を得ています。確かに体をほぐすと気は楽になりますし、気が滅入っている時は体がガチガチのはずです。

そういうわけで、寝付きが悪い人たちによく提唱されるのが筋弛緩法などです。ガチガチの部分に10秒程度思いっきり力を入れて、その後一気に思いっきり力を抜くということを繰り返せば、筋肉は緩み、頭のピリピリ感もなくなってきます。

ということで、体を緩めれば気持ちも楽になるということになりますが、生活をしているとまた緊張し、筋肉は固くなっていきます。

筋弛緩法は、一旦緊張が続いてしまっている状況に対しての対症療法としてはいいですが、根本解決にはなっていないような感じもしますね。

そこで本題である、緊張と弛緩から観る「今」のあり方について触れていきます。

ずっと弛緩状態が続けばどうなるのか?

緊張の緩和理論にしろ、筋弛緩法にみる緊張と弛緩にしろ、あくまで「緊張があってそれが緩む」という構造になっています。

正邪・善悪というコントラストのように、緊張と弛緩という二つの概念があって、それが相対的に比較されることで説明されています。

では、仮にそうした二元論を超えて、弛緩状態が続けばどうなるのでしょうか?

ずっと幸せです。

精神的にも肉体的にも何の緊張もない状態がずっと続けば、文字通り安穏の状態にいることになり、ずっと幸せです。

緊張状態における幸せ

しかしながら世間では、ある種の緊張状態にあることが幸せだと言う人もいます。

例えば、頭文字Dの峠バトルのような状態やそれを観戦している時の状態です。それは別に峠バトルでなくてもスポーツなどでも同じですし、音楽でも同じです。

しかしあえて言っておくと、ここで幸せと快楽は別物だということを先に捉えておく必要があります。

安穏と快楽

いつも幸せは加点方式ではなく、余計なものの削ぎ落とし方式であるというようなことを言っていますが、こうした「緊張がまったくない」というような弛緩の状態は、安穏に満ち溢れており単に幸せです。

緊張と弛緩というコントラストによるわかりやすい感情を超えて、緊張と緩和でいうところの、緩和の時の状態がずっと続いているという感じです。筋弛緩法で言えば、ずっと緩んだ時の感覚のまま過ごしているという感じです。

そして何もせずにその状態なのだから、何かの条件が必要でもないので苦しみはありません。

一方世間では「ギャンブルをしている時が幸せだ」という人もいます。

しかし、先程の緊張と弛緩の構造から言えば、それは幸せではありません。

そして、ギャンブルをしている時が幸せだということは、ギャンブルをしていない時は幸せではないということになります。ということは「ギャンブルをすること」というものが幸せの条件になっています。

もし勝って喜んでいたとしても、それは「快楽」であり、その快楽を追い求めることになるので執著が生まれます。もちろん負ければ怒りの感情が生まれるので苦しみです。

ということで、快楽をベースとした幸せのようなものは虚像であり苦しみであるということになります。

緊張を錯覚で弛緩させる「宗教方式」

緊張と弛緩という構造を見てみると、緊張がゆるめば幸せを感じるという構造になっています。

そして緊張がなければずっと安穏に満ちあふれていて幸せだということです。

しかし、人は生きているといろいろな緊張の種を持たざるを得ません。

少し外出するだけでも、「ちゃんと鍵はかけただろうか?」ということも少しばかりは気にしていますし、ポケットに財布が入っていれば、「財布を落とさないようにしよう」という緊張が少なからずあります。「財布が盗まれないようにしよう」という緊張もあるでしょう。

そうした無意識の緊張については「ゲーセンとがまぐち」でよくよく実感しました。現金だけでなく、身分証明書類も全て手元から無くなってしまったので、「落とさないように気をつけよう、盗まれないようにしよう」という緊張が全く無くなりました。置き引きにあったことで、帰り道に「財布を持たないことで気が楽になった」ということに気付かされたという感じです。

そんな中、哲学などに興味がない人でもどこかしら「死んだらどうなるんだろう?」とか「死んだ親父はどうなったんだろう?」ということも無意識レベルで気にしていたりします。

「生きる意味はなんだろう?」とか「生きている目的ってなんだろう?」とか「何のためにこんなに頑張っているんだろう?」などなど、そうしたことも普段焦点を当てていないだけで、どこかしら気にしています。

気にしているということは、緊張しているということです。

そうした無意識レベルの緊張に対して、わけのわからないような理屈を並べて弛緩をもたらすもの、それが宗教です。

「そのままだったらゲヘナの火に焼かれますが、信仰を持てばあなたは天の国で復活します」

「阿弥陀如来は優しいので何もしなくても極楽浄土に行けますよ」

という感じですね。

こうしたものは、先に掲げたような無意識の緊張を緩める「虚像」です。

目の前の社会的な問題を超えた形而上学的な疑問に対して、アイツこと自我は恐怖心を持っています。それに対して、確認できないような領域で物語を語り、それが答えかのような話を持ってきて緊張を解くという感じです。

カルトが用いるようなアファメーションも同じです。もちろん自我の中のセルフイメージのリアリティを高めるという目的もありますし、言語を用いて短期的な安堵をもたらすことで、緊張を緩和することも機能として持っています。そして短期的な安堵であっても、その短期的な効能を持続させればある程度幸せだろうということになります。

「空」でありながら実在するかのように働く機能

で、そうしたものを信じることで心に安穏を感じた人は、それが答えだと思ってしまいます。

その結果、自分が救われたように感じた答えに同調しない人を敵とみなしたりするのです。

しかしそうして誰かを敵だとみなし、怒りの心に苛まれることは幸せではありません。

ということで一時的に安穏もどきの領域に入ったとしても、結局アイツの領域に留まってしまうことになるのです。

緊張はアイツの演出

ということで、緊張に対して何かの理由をつけて少しばかり安堵を得るという構造は、アイツの内側で泳いでいるにすぎないのです。

緊張はあくまでアイツによる演出です。ということで錯覚です。

緊張も錯覚なら、宗教方式による弛緩も錯覚なのです。

では、緊張に対して弛緩をもたらすというものではなく、根本から緊張を生み出さなかったらどうなるでしょうか?

何も条件が必要ではなくなります。

正しく観ることで見破る

先日も「正しく観る」という言葉を使いましたが、今回もあえてこの言葉を使っておきましょう。

今を正しく観ることで、緊張の正体を見破ることができます。

では緊張の正体とは一体何でしょうか?

物を持ち上げる時の筋肉の緊張というものもありますが、そうした緊張は寝ればすぐに治りますし、持ち上げるのをやめれば緊張はなくなります。

しかし、精神分野のモヤモヤはずっと自分を緊張状態にします。

その原因を理詰めで解決しなくてもかまいません。

今に集中することと今をスタートとすること」などで触れていますが、今に意識を向けるとそうした緊張の正体が現れてくるはずです。

そうした緊張の正体、それは今の現実以外に意識が向くことで起こる妄想です。

そしてそれを見破るのが正しく観るということ、つまりヴィパッサナーです。

ヴィパッサナーは、「ヴィ」=正しく、「パッサティ」=観察するという意味です。この中のサティとは「気づく」という意味があります。

「正しく観て気づく」というのがヴィパッサナーです。

ヴィパッサナーは、ヴィパッサナー瞑想と表現されることもありますが、厳密には瞑想ではありません。瞑想とは、瞑(つむ)って想うと書きますが、そうした感じで目を閉じて行わなくても大丈夫です。

今、本当に認識していることを過去や未来への妄想を混ぜること無く捉えるという感じです。一切の判断を加えずに、単に自分の動作に言葉でラベリングしていくという感じになります。感情が起こったらならそれも一種の「意識の動作」です。感情が起こった時には感情を単語でラベリングします。

例えば大企業の社長が目の前にいて緊張するという場合、大企業や社長という言語的データによる妄想が現実に付加されてしまっています。

過去に社長は偉い人ということを学んだとか、大企業と言えばすごい会社だとか、そうしたことが「妄想」として起こっているわけです。

「ここで粗相をすれば後で上司に怒られる」と考えた場合、上司への印象は過去からのものになりますし、「怒られるかもしれない」というものは未来の想像になります。いずれにしても今現に起こっていることではないので妄想です。

そうではなく、現実としては、その人が目に映っているだけです。哲学的に見れば、それが実際に「あるかどうか」はわかりませんが、ひとまず、この心はそうした「絵」を捉えているというのが単なる現実です。

声が聞こえても「音」です。

その間に自分がしていることと言えば、息を吸ったり吐いたり、右足にかかった重心が左足に移りかけていたりという感じのことだけです。その時は「吸います」「吐きます」「右足」「左足」というような感じでラベリングです。

もし緊張という感情が起こった場合には「緊張」とラベリングしてみましょう。

その瞬間ごとの現実を単に観察し、ラベリングしていくだけです。

そうして意識が「今」に集中していくと、「死んだらどうなるんだろう?」ということは考えなくなります。

なぜならそれは未来への妄想だからです。今起こっていることではありません。

そして諸行無常ゆえにそうした現実は瞬時に変化していきます。

上司に怒鳴られたとしても、怒鳴られたこと自体は単なる音です。

怒鳴り声に対して「音」とラベリングしましょう。

そして音とラベリングしたと思ったら、もう次の瞬間に音は過去になっています。

今に意識が集中すれば、そんな過去は自分の認識に入ってきません。

ということで緊張など起こりえないのです。

それが極めつけになると、緊張と弛緩というコントラストを必要とせずに、ずっと笑っている時のような安堵が訪れるでしょう。

緊張しても冷静に「緊張」とラベリングしているというのは、何だか落語的ですが、そうなると緊張が緊張では無くなっているような気がしてこないでしょうか?

そのうち、自分というものの主体すら錯覚ということを見破ってしまうことになるでしょう。


過去を今に持ってくると、その過去がこれから起こる今の因果の因になります。未来に意識を向けると妄想により感情が苛まれます。といっても未来への妄想も情報の発端を考えれば過去をベースとしています。

今に集中している時、今以外には意識の向き先はありません。

「今」に集中することと今をスタートとすること

Category:philosophy 哲学

「緊張と弛緩から観る「今」のあり方」への2件のフィードバック

  1. 正しい理論そうではあるが、実践的ではない。
    上司に怒鳴られれば反射的に気がめいるし、今に集中しようにも集中できないでしょう。その結果、出家などという人と関わり合いになることを避ける人が生まれたのではと思います。
    人と関わらなければ「今」に集中できるからです。

    1. 一応哲学テーマなのでその点を考慮いただければと思います。
      生理的な反応として集中が壊れるということは往々にしてあると思いますが、
      ここでは社会的な作業としての集中や日常レベルの「混乱の逆にある概念としての集中」よりもさらに細かく、瞬間的な五蘊レベルでの現実の受け取りから展開しています。
      もちろんおっしゃるようにそうした観察においても、定のレベルによって「生理的な反応があれば現在に意識はシフトしにくい」という側面はあり、出家が理想的であるというのは理解できますが、人と関わらなくても、エネルギーの獲得や体温の維持などに生理的な恐怖心は残るので人を回避すれば解決するというわけでもありません。最終的には人と関わっても関わらなくても、と思っています。
      社会の中で何かの意図が阻害されたとしても、何が何でも社会の中で何かを実現したいという意図そのものが、恐怖心を根底とした執著を含んでいるのかいないのかというところが肝心だと思っています。そういうわけなので、瞬間的に生起し消滅しているこの内側の意識の状態を観察するのが一番だと思います。

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