第三の眼

二つの他の眼を通して世界を眺める大きな第三の眼を開け! 曙光 509 文末

手が腱鞘炎気味ですが、早朝利用です。

アナリティクスでサイト内検索を見ると皆さんの関心事がなんとなくわかってくるような気がします。

さて、第三の眼です。第三の目と表記しても構わないのでしょうが特別企画なので仕方ありません。

これは、第三の眼を開く、第三の眼で観るとか言われるときの第三の眼です。この部分に関する興味や感覚は古今東西様々なところでみられ、第三の眼が開眼すれば超能力が得れるとか、様々なことが観れるようになるとかいうようなことが語られたりしています。

眉間らへんにある第三の眼

眉間あたりに第三の眼があるとかないとかいうことがささやかれることがありますが、まあポジション的に集中するとそのあたりに何か感じることは確かにあります。

目の動きを利用して脱洗脳なども行われますから、ひとまず目のあたりは結構重要です。

今の意識状態が目に表れるため、人を見抜くときは目を見れば大丈夫です。

そして、目の動きで誘導すると相手とのパワーバランスを操作したりもできます。

まあそれはさておき、第三の眼が開眼するとかなんとか言われるときの第三の眼についてちょっとだけ触れてみましょう。

視覚情報に頼り過ぎな日常

まあ以前某プロの楽器奏者に聞いたところ、成長過程で目からの情報を頼りにするということがメインで育ってしまうため、幼少期から音に着目しないと、耳から得れる情報の感度が育ちにくいというようなことを言っていました。

そのような感じで、日常のほとんどは目を頼りに生きているはずです。

ただ、そういうのに慣れすぎると、見た目で騙されてしまうという事がよく起こります。

人が判断をするときの大半の要素は、視覚情報と言語情報です。

まあお見合いで言えば、顔がいいとか、言語情報としてどのようなステータスを持っているかとか、そういうところです。

モノ選びで言うと、デザインがいいとか、有名なブランドだとか、今すごく希少価値があるとかそういうところです。

ただ、何度も触れていますが、服を作るならデザイン性よりも、腹回りが冷えない服を作って欲しいというのが本音です。

そういうわけで、目に頼ると本質を忘れてしまうということがよくあります。

むしろ、本当は本質を見る力があるはずなのに、目からの情報と、目などから得た言語情報によって、判断が狂ってしまうということです。

第三の眼など、ほとんどそのような錯覚がないだけのものだという捉え方でいきましょう。

眉間にしわを寄せると閉じると言われる第三の眼

詳しい理屈はよく知りませんが、人は怒るとIQが下がるそうです。

というより人の知能指数など、その人のコンディションでかなり変わるはずです。特に高い人は変化率の幅があるため変動も激しいのではないでしょうか。

そのような感じで、感情的になっているときはこうした判断が狂ってしまいます。

ひとまず肩の力を抜きましょう。

そして形だけでも笑顔を作っておくと、緊張がほぐれて第三の眼が開きます。

まあ制限がかからない状態になれるといったイメージでしょうか。

「いい人」という誤認

さて、助平心で優しそうに接しているだけなのに、変にやってもらったことに喜びなどがあるとその相手を「いい人だ」と誤認してしまう人がいるようです。

別に疑ってかかっているわけではないのですが、僕は昔から臆病な方(よく「嘘だ」と言われますが、本当です)なので、いつも人と接するときは少し距離をおいていたため、あまり人を「いい人だ」と思ったことがありません。

自尊心充足の目的

特に異性に対してモノをおごるとか、そういう行動を取る人をみて、単純に「スケベ心の達成」という目的があるというだけでなく、「いい人だと思われよう」とか「こんな行動をとれる自分って素敵」とか、そういう自尊心充足の目的があるように感じるので、特にいい人だとは思えません。

いわゆる「余裕があるからやっている」のか、ある意味で「気持ちに余裕がないからやっているのか」という違いがあります。

お金は出してあげるから自分を持ち上げてくれという感じです。

奥にある動機の構造

傍から見ていると、そういう気持ちの奥底が見えるため、奥にある動機の構造がよくわかります(動機は一つとは限りません)。

ところが、それに気づかない人もいるようです。

これは、第三の眼が開いていないからだと言っていいでしょう。

目の前のエサにつられて、エサに反応した自分の感情に振り回され、本質が見えなくなっているのですから。

第三の眼 曙光 509

Category:曙光(ニーチェ) / 第五書

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