短気

短気は気が短いということ、というわけで短気な人というのは「我慢ができない人」ということになるのでしょうか。我慢などしてはいけません。やりたいことはどんどんやりましょう。

しかしながら、我慢の手前には欲とか怒りがあるはずです。でもそれを表に出してはいけない、行動に移してはいけないと思う時に我慢が出てくるはずです。

短気というのは気が短いと言うだけで、短気でなくとも我慢があればいつかは限界に来て行動を起こしてしまう、ということになるはずです。

我慢と怒りの観察

ところで、何かの衝動が起こった時、どうして我慢をしてしまうのでしょうか?

それはそれを実行した場合に、どこかで後々都合が悪くなってしまったりするからでしょう。その行動を取ったところで「都合が悪くならない」と思っている場合はすぐに行動に移すはずです。短気だと言われる人は、我慢することなくすぐに怒鳴ったりしますからわかりやすいですね。

我慢はしなくていいですが、どうして怒りが生じるのかは観察した方がいいでしょう。どうして欲望が湧いてきたのか、ということも観察した方がいいでしょう。

「そんなものは勝手に湧いてくる」

といいますが、確かに自動的に発生するものの、必ずプロセスがあります。捉えきれないくらい速いですが、必ず原因があります。

体からの要求なら、そこに意識的な理屈は特にありませんが、例えば、相手に何か言われたことに対して瞬間的に怒ってしまうには、必ず意識の中に理屈があります。それが論理であれ、感覚であれ、必ず何かしらの理屈があるはずです。

世の中では、そういう衝動を「我慢しろ」とだけ言いますが、根本に働きかけることを提案することは特にありません。世間ではたまに「考え方を変えろ」と言いますが、「では、どういうふうに変えるのか?」ということにはあまり教えてくれません。

脇で怒鳴り散らされると気分が悪いから我慢するように指導しよう、位の感覚です。それくらいしか思っていません。

我慢はする必要がありません。嫌いな人は嫌いで構いません。しかし、その自分を振り回してくる衝動は何なのか、ということについては考えてみたほうがいいでしょう。

別に怒ったり物を欲しがったりすることを我慢できないことだけが「短気」というわけではありません。

あまり意識されない短気

短気という言葉は、どちらかというと「怒鳴り散らす」といったようなわかりやすい怒りに対して用いられることが多いですが、怒りは目の前の現象を不快に思い、何かしら排除したいという構造を持っています。そういうわけなので怒りの種類は、世間一般的な「怒り」だけではありません。悲しみも怒りなら、憐れみ乞いも怒りを発端としています。

そういうわけなので、物乞いのように、ちょっと気分が落ち込んだら「すぐに人に憐れみを乞う」ということも短気です。憐れみを乞うことも、我慢はする必要はありませんが、憐れみを乞うてしまうこの衝動は何なのか、ということを捉えていかねばなりません。

でないと延々とその衝動がやってきます。自分も苦しく、傍も迷惑です。特に、苦しい思いをすることになるので、取り除いていかねばなりません。苦しいのですから当然です。

SNSで子育て真っ盛りの人たち、つまり僕世代のやりとりはひどいですね。

「私、頑張ってます!」

「私、頑張ってるよね?」

というアピールばっかりです。

残念ですが、そんなことは他人が決めることでもなく、他人にアピールするようなことではありません。他人の評価を条件にすれば、他人の評価や感情で自分の感情がコントロールされます。

こんなアピールをすぐにしてしまうこと、それも短気です。しかし、我慢をする、という以前に、なんでそんなことをしてしまうのか、心の奥を覗きこんでみてはいかがでしょうか。

短気 曙光 452

Category:曙光(ニーチェ) / 第五書

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