決闘

ぜひとも必要な時に決闘することが出来るのは利益であると思う。なぜなら私のまわりにはいつでも勇敢な仲間がいるからだ、とだれかが言った。決闘というものは、最後に残された全く栄誉ある自殺への道である。悲しいことには廻り道である。しかも全く確実なものですらない。 曙光 296

実際の肉弾戦でなくても同じことです。決闘は栄誉ある自殺の道、とニーチェは言いますが、栄誉などありません。ともすれば最後に「名前だけは残したい」「歴史に名を遺したい」というタイプの人がいます。前回の「奉仕の如才なさ」でも触れましたが、これは本能的な生存欲求が社会的な情報の表現として実現させようとしている、ただの生の衝動です。

文化というものが現れてから、何か自分に関する情報を後世に残そうとする行動は、子孫を残すという生物的な方法論以外に、こういった「歴史に名を刻みたい」という行動を呼び起こしました。

お金や地位という一種のエネルギーを獲得し、そのエネルギーを使って自分の情報を残そうというようなものです(地位については位置エネルギーのような位置づけでしょうか)。

遺伝子に刻まれる遺伝情報も一種の情報ですが、それをまた別の情報のあり方で後世に遺そうという試みです。

動物であれば、他の生命体のエネルギーを子孫作りに向けるという構造ですが、これが他人のお金で「自分の名がついた観光地」を作るというようなことに化けています。

わかりやすいですね。「教科書に載るようなことをしたい」ということも同じようなことでしょう。

さて、決闘です。

決闘なんかする必要がない

ところで相手に勝つということはどういうことでしょうか。それには勝ちか負けか判断する人(ゲーム等ならシステム)が必要になります。その人やアイツこと自分自身の自我に「勝った」と判断されて、それはそれでいいのですが、判断されて、それでそれがどうしたというのでしょうか。

わざわざ戦って勝つ必要などどこにもありません。

例えば人類の敵というか人体にとって有害である細菌などがいるとしましょう。決闘が美徳だということは、その細菌に勝たねばならない、などと言ってわざわざその細菌が繁殖しまくっている所に飛び込んでいくようなものです。

その細菌に触れず冒されず、多少触れていても抵抗できているのであればそれで既に勝っているのだから、わざわざ戦いになどいかなくてもいいことです。

誰かに「おまえの勝ちだ」と言ってもらっても仕方ありません。負けていないのだからそれで十分ではありませんか。

戦って勝つという方法しか頭にないのはもったいないことです。逃げることも相手を仲間にすることも立派な兵法です。

決闘 曙光 296

Category:曙光(ニーチェ) / 第四書

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