欺かれる

諸君が行為しようと思うや否や、諸君は懐疑への扉を閉ざさなければならない、― と、行為する者がいった。― しかし君は、このようにして欺かれた者になることを懸念しないのか?― と、瞑想的な者が答えた。 曙光 519

欺かれる(あざむかれる)ということで、「選択肢から選ぶ」ということをもって欺かれてしまうという面についてでも書いていきましょう。この「欺かれる」の「欺」は、もちろん欺くことであり、詐欺の欺です。

だいたい思考が働いている時は行動がストップします。

道が二手に分かれていて、どちらにしようかと検討している時は、歩みは進みません。

しかし、少し考えてみると、「どちらにしようか?」と考え、思いを切り、そのうちいずれかに歩みを進めるということ以外にも選択肢はあります。

目の前に二つなどの選択肢が提示されると、どちらか一方を選ばねばならないのだ、と思ってしまいがちですが、そのどちらも間違っているということも可能性として成り立っています。そのような感じで簡単に欺かれてしまうことがあります。

10年以上前の話ですが、友人の大学の先輩のような人に、第一声で「学生?社会人?」と聞かれたことがありました。

特に深い意味はないと思いますが、この時すごい違和感を感じたものです。

根本問題を無視した議論

こうした変な質問を筆頭に、周りが哲学者かそれに準ずるような人でない限り、日常の会話はほとんどが、「選択肢から選ぶ」といった話になりがちです。

本当のところで言えば、そうした選択肢を包括する抽象的なところから考えていくと、物事をよりよく理解し、よりよく選択していくことができます。

すごくわかりやすい話としては、携帯電話でしょうか。

日常会話における通常の思考のあり方、選択のあり方としては、「スマートフォンかガラケーか」、「契約するのはどの携帯電話会社か」、「携帯会社の中のどんなプランか」といったところがせいぜいです。が、根本問題を考えると、そもそも携帯電話を持つ必要があるのか無いのかという点が浮かんでくるはずです。

そういった根本問題を無視して「選択肢から選ぶ」ということをした場合、意図せず欺かれている場合があります。

便利さというメリットだけではない

だいたいの物事にはメリットとデメリット、その両方が含まれています。

携帯電話で言えば、「料金がかかる」といったわかりやすいデメリットの他に、「自分の意識、ペースが乱される」というデメリットがあります。

気軽に連絡が取れる、写真が取れる、ゲームができる、買い物ができるといったメリットもありますが、一方で、費用が発生するということの他、常時接続による緊張の連続、他人やアプリによってペースを乱されるということからくる「意識の疲弊」というデメリットもあるわけです。

会社役員でもある程度になると、逆に携帯電話すら使わない人がいます。

やり取りは秘書を通じてというのが基本形で、固定電話すら自分が使うことはないという人もいるでしょう。

こうした電話などは、遠く離れた人とすぐに会話ができるといった便利な面の他に「ペースを乱される」というデメリットがあります。

もし詐欺において人が欺かれる場合にも、こうしたメリットとデメリットを想起させないように目の前に二元論化した選択肢を与え、その中から選ばせることで、前提となっている部分を盲目的に認めさせるということがなされています。欺かれることを避けるのであれば、そうした選択肢の提示の際に、意識に余裕を持って対象を抽象化してみましょう。

電話をかける側と受ける側

電話をかける側としては、自分の中での都合を考え、相手がすぐに出てくれることを期待しますが、かける側は話す内容も頭でまとまっており、自分の中では「電話をかけるぞ」モードです。

一方電話を受ける側は、電話がかかってくることがわかっている場合もありますが、基本は不意打ちです。

友人の中でも、絵を描いたりデザインにまつわる職業の人やプログラマータイプの人、つまり、自分の空間に入り切らないと本領を発揮できないというタイプの仕事をしている人は概して電話が嫌いです。というより電源すら切っている人が多いです。

ちなみに僕も電話は嫌いです。メールはまだマシですが、好きではありません。

LINEグループなどは絶望的です。

なぜ他人同士のやり取りなのに通知され、ペースを乱されねばならないのか?

ということです。

もちろん全ての誘いを断っています。

社会ではメリットしか語られない

まあ、社会は「まあおそらくこうだろう」という蓋然性で回っています。だからほとんどの場合「だいたい」でしか議論されません。

それはそれで、物事が早く進みますからそれでいいのですが、特に消費に関するものに対して、社会ではメリットしか語られないのが常です。

スマートフォンの危険性として「やめよう歩きスマホ」などということは語られますが、本当の危険性はもっと深いところにあります。

読んでも仕方ないようなニュース記事や、特に洗練もされていない動画などに時間を費やしてしまうことはもちろん、何よりも、ペースを乱されてしまうところに一番の問題があると思っています。

バラエティを見るのはダメだがニュースは良いという議論も、テレビを見ることを盲目的に肯定させています(テレビを見ない生活)。それ自体が一つの欺きなのです。

一番の危険性

一人で黙々と向き合っていれば到達できる文化の極みなどに対しても、少し手を出そうと思えば、画面や音の「通知」で気を散らされ、「友だちがいなくなる」とか「失礼になってしまう」などと脅迫され、何一つ本気で向き合うことができなくなってしまう、それが一番の危険性だと考えています。

便利だからこそ、物事をうまく進めることができる、という謳い文句の裏には、「達人」を生み出しにくくする仕組みがデメリットとして存在しています。

そうした点すらも盲目にさせてしまうというもの、一つの欺きと言えるでしょう。

欺かれる 曙光 519

Category:曙光(ニーチェ) / 第五書

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