植物たちが教えてくれたこと

どうも久しぶりです。bossuです。

ひとことで少し触れましたが、友達と話した次の日に、すごいことが起こりました。

まあ単なる夢うつつみたいな感じだったのですが、命の本質みたいなものが朧気ながらわかったような気がしました。

そう言えば以前から少し不思議には思っていたのですが、その謎がひとつ解けたような感覚です。

考えている以上に細かな単位の生命

それは、細胞というか、自分たちが考えている以上に細かな単位で生命の単位があるということです。

まあ仮に、命を「生きる意志」と、「生命維持活動」みたいな感じで捉えてみた場合、それがよくわかります。

基本的にひとつの「個」みたいなものは、関数のようなもので、あるエネルギーを与えると、何かの現象変化をもたらすような個別の存在だと考えればいいでしょう。

生きる意志と自らの生命維持活動を行うという機能

そうなると、エアコンも電力を供給すれば、空調という役割を果たすので、ひとつの関数です。

でも、エアコンには生きる意志と自らの生命維持活動を行うという機能はありません。

究極的にはコンピュータならどうなるのか、ということになりますが、生きる意志と生命(?)の維持活動自体は行うことができるでしょう。

心と脳

でも、根本的に情報処理をしたあとの情報を受け取るという機能自体がおそらくありません。

まあ「心」ですね。

たまに、「心」イコール「脳」みたいなことを言う人がいますが、人間で言えばそうなのかもしれません。

ところが、脳を持たない生命体も、生きる意志と生命維持活動、そしておそらくそれを受け取る「心」を持っています。

人間という単位で見た時、脳と心はほとんどイコールなのかもしれませんが、どうもそうではないというようなことが、その朝わかってしまった気がしました。

まあ、人間はどうなのかわかりませんが、少なくとも植物はそもそも脳がありませんから、このセオリーは通用しません。

そして、その朝植物たちが教えてくれたこと、それは、分割されても再生可能な数量の生命が、ひとつの植物というまとまりを形成していることです。

植物の生命

完全に生命が息絶えるという状態は、その後の酸化などは別として、一切の生きる意志と生命維持活動が行われない状態になったときです。

まあ物質として扱っても良い状態なのかもしれません。

しかし、植物は、ちぎられても結構生きています。

強い植物は、茎だけになっても、環境が合えば根を生やし、葉を出すこともあります。

つまり生きているということです。

そこで面白いのが、例えば一本の草を上下に分割しても、それぞれまた再生する可能性があるということです。

ということは、一本の草が、生命の単位としてひとつではないということです。

再生可能な細胞単位での生命

よく、挿し木や接ぎ木とか葉挿しとかで、増やせる種の植物がいますが、それならば、挿し木などでまた成長する可能性がある単位で、生命の数として数える必要があります。

しかも、この再生可能性は、環境による影響が大きいため、もしすごく良い条件の環境であるならば、自分たちが考えている以上に細かい単位で分割することができる可能性があります。

人間でも、もし細胞ひとつで、また人間がもうひとり出来上がるならば、自分というものはひとつではなく細胞単位で心を持っている可能性があります。

ということで少しクローン羊のドリーを思い出しました。

生きる意志

名前は知らないのですが、近所のおじさんに刈り取られてしまった野草なんかは、刈り取られた後でも、死んでしまう前に今ある生命エネルギーを総動員して、タネをつけることがよくあります。

この意志こそが、種の本能であり、一種の生存本能です。

で、この生命力の単位は、考えている以上に、細かな単位だということでしょう。

哺乳類でも生殖に関する精巣・卵巣は、この意志の力を持っています。

情報を受け取る機能である「心」自体は、この生きる意志とセットなのでしょう。

ただ、その意志は「自分」とイコールではありません。

たまに触れますが、自分の手を自分の一部だということにしてしまった場合、その手がちぎれてしまった場合はどうなるのでしょうか?

そして、仮にその手の細胞からクローンが生まれたらどうなるのでしょうか?

そうなると、各々の意志や肉体は、自分とイコールではないはずです。

まあ、脳と考えて差し支えないのですが、常に情報を受け取っています。

その情報は色眼鏡をかけられた、ほとんど虚偽の情報です。

各々の意志が気だとしたら

まあ、養子や雪雄に遠隔歯軋りなんかができるわけですが、これは気功みたいなもんです。

そこで考えてみると、ものを食べるときは全てそこに気がこもっているということです。そして植物を食べるということは、相当の数の生きる意志がこもっていると考えることができます。

僕は胡散臭い自称ヒーラーではありませんが(ちょっとできるからってビジネスにしようとする貪りの心と向き合いなさい)、いちおう気の流れがわかります。

そして、それがさらにわかるようになりました。まあ視覚や触覚の共感覚なのかもしれません。

食べ物になった生命に馳せる思い

こうなってくると本当に、「炭水化物の量が~」みたいな感じで、食べ物をタダのカロリー換算で考えることは、馬鹿げていることがわかります。

飲み屋で大量の料理を残して、パワースポット巡りをしている人なんかがいますが、残念ながらやるべきことが逆です。

そんなことをするくらいなら、黙って集中して食べることです。

「食べ物を粗末にするな」

ということが語られる時、「お百姓さんが」とか「誰が食費を出しているか」とかいうことが優先されることがありますが、それはそれで一つの要素として扱ったとしても、それ以前にその食べ物になった生命へ思いを馳せるべきです。

人間単位でばかり考えると、気が入ってきません。

あの細かくともそれぞれが持っている生命力を感じたとき、認識している空間の構成がじわじわと感じられました。

だからこそ、必要以上の浪費も、感情のための殺生も、倫理的な思考や感情を抜きにして、苦しみであることが感じられました。

それを体感してからというもの、体中が気で満ち溢れています。


植物と仲良くなった日

Category:miscellaneous notes 雑記

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