最も些細なものでもすでに十分である

最も些細なものでもすでに十分強くわれわれに印づけられていて、― どっちみちわれわれはそれらを免れることはないのだ、ということが分かったら、われわれは数々の出来事から遠ざかるべきである。― 思想家は、彼らが一般になお体験しようとする事物のすべての大よその基準を、自分の中に持たなければならない。 曙光 555

経験したことは全て無意識が覚えている、なんてなことがよく言われますが、まあそうであるなら当然に「何が欲しいか」とか「何が好きか」とか「何がしたいか」というものも無意識レベルで形成されているはずです。

自分で好きなこと、やりたいことを見つけようとしなくても、無意識の奥底ではしっかりとそうしたものが出来上がっており、そうした方向性に対する意図というものは自動で出来上がっているはずです。

無理に掴もうとせず、感情が楽になる方へ

であるならば、「何がしたいかわからない」といった状態や、「どうしても叶えたい」といった状態において、渇望しようがしまいが、執着しようがしまいが、ひとまず楽になる方法をとっておくほうが理に適っています。

執着はしないに越したことはないのですが、「執着するのはいけない」というのが脅迫じみて感じられ、そこに苦があるのならば、執着の方に飛び込んでみるのもなかなかおすすめです。

それは「執着に飛び込めば執着が消えるから」という方法論的なものではなく、執着を手放すのか、それとも執着の中に飛び込むのか、そのどちらを選択してもいいので、感情が楽になる方に意識を傾けておくというものです。

アイツは執着を手放すことに執着させる

なぜならアイツの機能として、「執着が苦の原因である」ということを利用して、執着を悪者にし、「『執着を手放すこと』に執着させる」というウルトラC解釈を実行してくるからです。

すごいですよね。

執着が苦の元凶、煩悩であるということを頭で理解した途端、その執着を手放すことに執着させるという裏技を使ってくるのですから。

楽な方を選ぶ

だからそんなときのアプローチは、「楽な方を選ぶ」です。

楽なのだから、苦ではありません。

「執着を手放そうが、執着していようが、結果は同じだ」

とすら思えれば楽になるということなら、そんな感じで過ごしてもいいはずです。

もし何某か苦しくても、苦しそうな場面を楽しんでいるとすら思えてくるかもしれません。

苦を消滅させるための理屈が、また苦の原因になっていては本末転倒です。

何か進んだように見えても、同じところをぐるぐる周っているだけになってしまいます。

怒りに対する怒り
欲が無くなった状態を欲する欲

こうした構造はどんな場面にでも応用が可能です。

怒りとは対象への排除の欲求ですが、怒りの場合なら「怒りを無くしたい」という「怒りに対する怒り」という、一見ややこしい構造を持ってしまいます。

欲の場合なら欲を「無くしたいという欲」、「欲が無くなった状態を欲する欲」ですね。

言葉遊びのようなややこしい構造ですが、アイツはこれほどにまで優れた論理力を持っています。

だから論理を超えているというような表現がなされるといった感じです。

ひとまずは、自分を大切に現時点での「快」に視点を向けてみるというのもひとつの手です。

最も些細なものでもすでに十分である 曙光 555

Category:曙光(ニーチェ) / 第五書

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