暖かい徳と冷たい徳

 冷静な大胆さ、毅然とした態度としての勇気と、熱烈な、半ば盲目的な勇気― 双方がひとつの名前で呼ばれている!しかし、冷たい徳は暖かい徳とどんなに異なっているだろう! 曙光 277 前半

おそらく昔から、誰よりも冷徹だと自負しています。今では怒りもしませんが、切り捨てという意味では、切り替えが早いと思います。特にビジネスシーンではこの要素がかなり重要なポイントになります。

とりわけ株式のトレードなどでは損切りの素早さが勝敗の要になります。昔から思うのですが、会社の好き嫌いで株を買っている人の神経がよくわかりません。

同じ買うにしても、株価が値下がりしている時に買えばいいのに、好きだからという理由で手を出すような人がいます。海外では誕生日プレゼントにディズニーの株を、ということもあるようですが、一単元くらいなら問題ありません。しかし、好きなだけでなぜわざわざ株を買うのでしょうか。「好き」だけで十分ではないでしょうか。

人間関係の修復

同様に、亀裂の入った人間関係の修復というものを、ほとんどしたことがありません。一度でも亀裂が入るということは、やはり、別にそれほどの関係ではないということです。

「喧嘩するほど仲がいい」ということを言う人がいますが、十年、二十年と付き合いのある仲の良い人と、今までに喧嘩というものをしたことがありません。

世の中においては、無理に人間関係を修復しようと試みることが起こったりもしますが、やはり修復が難しいほどの亀裂が入った関係の人というのは、どこかしらで相手に対して尊厳を否定している部分があったりします。

そうした部分から説得することは難しいですし、そんなことをしているのであれば、別のいい人を探したほうが早いという感じになってしまいます。

いかに多少の口論になろうとも、根底に相手への敬意がある場合は、修復不可能な喧嘩にまでは発展しません。

暴力的要素、支配的要素

「喧嘩するほど仲がいい」ということの奥にあるものは、「言いたいことを言わずに、モヤモヤしているのならば言った方がいい」というような意味合いでしょうが、実際に喧嘩になるということは、伝え方に暴力的要素、支配的要素があるということです。

どうしても相手に対して「変わってほしい」と思うと、喧嘩になります。

しかし相手には変わっていただかなくても結構です。

その相手と関わりを無くせばそれで完了。何も憂うことはありません。

相手は勝手に何かこだわりを持っていて、それで頑なに何かをしたりしなかったりするわけですが、そんな相手と無理に一緒にいようと思うから、相手の行動にイライラしてしまうだけです。

去ればいいだけ

嫌ならば、すっと去ればいいだけです。

人は人との関わりの中で生きていると言っても、人との関わりの中で生きているのは自我です。相手は、いてもいないのと同じような空虚なものです。

本来は誰も養わず、また、誰にも養われない、という姿がデフォルトです。ただその状態に戻ればいいだけです。

相手によって幸せを感じられるのならば、それを感じつつ、苦しみを感じるのならば去ればいいだけ、たったそれだけです。自分を騙す必要はありません。その際、感情はほどよい指針になります。

情報としての遮断だけでも十分

実際に物理的に去ってもいいですが、意識、つまり情報としての遮断ということだけでも十分です。見ても見えているだけ、それに実体という虚像を認めつつ、その影響というものを許容しているからこそ、そういった憂いが起こります。

受け取りの間口にフタをすることが出来ないのならば、すっと去ってしまうのが最も賢明な解消法です。自分からはなかなか逃げられませんが、嫌いな人から逃げるのは簡単です。

あとはその人が意識に出てきても、それは記憶や想像という情報的な意識の現象であって、実体はないことを確認すればそれで事足りるでしょう。

和解させる

暖かい徳と冷たい徳 曙光 277

Category:曙光(ニーチェ) / 第四書

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