暇な人との思い出

先日養子の目の一部が赤くなっていたので、彼を動物病院に連れて行きました。

獣医に抱っこされた際に、かなり嫌だったのかドロップキックをしていました。

白内障の影響らしいのですが、特に不快がっていないということで治療は無しです。診察料金は320円。かなり良心的です。

父が車を出してくれたのですが、父の同級生に獣医がいるという話になり、「アイツんとこなら5000円位ボリよるぞ」と言っていました。

最近の養子のお気に入りは「バナナ」です。

暇な人の暇つぶしの踏み台にされないように

さて、こないだの「話題」は暇な人の消費対象で思い出したので、暇な人との思い出についてでも書きましょう。

暇な人はどんな特性を持っているのかということを見極め、暇な人の暇つぶしの踏み台にされないようにしなくてはなりません。暇な人との思い出を思い返すと、本当に「何でそんな人と関わっていたのだろう?」と思ってきます。

行動の動機を探る

さて、人であれ動植物であれ、意志を持つものが何かの行動を起こす時、必ず動機があります。

法律を勉強した人なら馴染み深いと思いますが、刑法でも過失系の規定以外は原則的に、犯罪の責任を問う場合は、その行動の奥にある「意思」が必要になります。

そんなわけで、人の行動にはその奥に動機があり、動機がないところに行動はありません。

「耳をかく」という行動であっても、耳がかゆいという不快感の解消とか、「誤魔化したい」などの無意識的な心理変化による原因などがあります。

そういうわけで、やっぱりノリは良くて人付き合いが良いようなタイプの「暇な人」のことを思い出してみました。

暇と口実

暇な人は、パーティやイベントなどが好きだったりします。

理由は暇だからです。

そして、それらを開く「口実」さえあれば、それでいいという浅い思考を持っています。

さらに彼らには友だちがいません。友達のような人はいますが、友達ではありません。

そういえば、アリストテレスか誰かも、「友だちが多い人は、友だちがいない」というようなことを言っていました。紀元前からこの構造は様々な賢人に見ぬかれていたのです。

例えば、誰かの誕生日パーティーをやる、といった場合に、心の底から誕生日の人を祝ってなどいません。

「パーティを開催し、楽しい空間を味わいたい。暇だから」

というのが本音です。

そして付加要素として「オレっていいやつ」という自尊心の充足なども原因になっています。

「送金だけする」という行動

例えば、本当にお祝いをする気持ちがあって、「送金だけする」という行動は考えられません。

誰かに「一人500円ずつ」と言われれば、その誰かとの関係性や、通称「仲間」の和を乱さず、孤立しないためにお金を差し出しますが、仮に送金してもしなくても、その事実は誰にも分からないという構造であるのならば、お金は差し出さないでしょう。

離婚して遠くはなれてしまった子供に対してなら、顔が見えなくても、誰がやったのかわからなくても、そういった行動をする可能性があります。

しかしそのレベルになると、本能的な「愛」に近い行動です。

それと同じことを通称「仲間」にもできるでしょうか?

おそらくやりません。

パーティーにも参加できず、誰からも「善人」と扱われないのに、仲間一人あたり一万円出て行くと考えた場合に、どのように考えるでしょうか。

そんな感じで「暇な人」のお祝い行動を考えてみましょう。

結局暇な人の踏み台だった

高校生の時です。

他校の同級生などが、僕の高校まで花束持参で来て、卒業祝いをしてくれました。

20人位来てくれたのですが、その内僕が友達と思っている人は5人ほど。その人達とは今でも付き合いがあります。

しかしその他15人ほどは、ただ暇つぶしのために来ていたと思います。

全員花束代として少しはお金を出してくれたそうで、すごい大きさの花束を貰いました。

それはそれでありがたい出来事でした。

その後、卒業ライブ的なものをしました。

僕が知っている人は50人位来てくれて、その他を合わせれば100人以上会場に来ていました。

その後、自分のバンドのライブが1ヶ月後にあったので、先の15人を含めてその卒業ライブに来てくれた人にお誘いをかけました。

結果は0人。今でも仲の良い友達5人は来てくれましたが、「暇な人たち」は

「そんなの行かないよ」

とあっけなく断ってきました。

大学入学などがあり、新しい環境が優先的になるのはわかりますが、あの時、僕に当てられた「人気」のようなものは、僕への気持ちではなく、僕を軸として生まれるその場の「楽しそうな空間」であったのです。

僕はそれ以降、こういったタイプの人を信用しなくなりました。

「そんなの行かないよ」と言ってきたうちの一人が、

「今度飲み会やるから」

と言ってきました。

行くわけがありません。

その時点からやたらと飲み会を開きたがる人が嫌になりました。

「暇」に踊らされ、自らの心を観察することを先延ばしにしている暇な人たち

そういうタイプの人は、お金を持つと「仲間とゴルフ」をやりだします。

そういった浅い関係は無いほうが人間を向上させると、今でも思っています。

仕事上で紹介を受ける際に、個室で食事というのはいいのですが、無駄な飲み会には一切参加しません。

なぜなら僕は暇ではないからです。

普通は暇ではないというと、「忙しい大物自慢」のように捉えられますが、空いている時間はたくさんあります。

ただ、時間に余裕があるときでも、「暇だ暇だ」という焦燥がありません。

やりたいことがあってそれをやっている人や、時間が空いても焦燥感がない人は、暇な人ではありません。

暇な人は、空いている時間に耐えることができないほど、アイツが暴走している人です。

そして、その暴走を食い止めるために、他人を踏み台にしてでも、自分を楽しませようとします。

その人達の「アイツ」に付き合う必要はありません。

「暇」に踊らされ、自らの心を観察することを先延ばしにしているだけの人たちなのですから。

Category:miscellaneous notes 雑記

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