晴れの国おかやま 2018 和気町

晴れの国おかやま 2018 和気町 「ふるさと和気 民話編」

晴れの国おかやまツアーで一番最初に行ったのは和気町です。今回は「岩井志麻子ワールドツアー」ということだったので、岩井志麻子氏の故郷岡山県和気郡和気町にちらっと寄りました。

ということで、ひとまずと言ってはなんですが、和気町歴史民俗資料館に行きました。

そしてそこで発見した「ふるさと和気 民話編」がたまらない逸品だったので、その存在だけでもお知らせしておきます。

和気町歴史民俗資料館

和気町歴史民俗資料館

和気町歴史民俗資料館

和気町歴史民俗資料館では、和気町の歴史や和気清麻呂公に関する資料、民具などが展示されています。

第二展示室はテーマ展示ですが、第一展示室は常設展示で「和気の歴史と文化」が取り扱われていて、古代・中世・近代の和気について出土資料、歴史資料からの案内がなされています。その他、館内には和気清麻呂石膏像や徳永柳州氏の作品などがあります。

〒709-0412 岡山県和気郡和気町藤野1386-2

和気清麻呂公

さて、和気町は和気清麻呂公の出身地ということで和気町歴史民俗資料館で掲示されている話は、馴染みのある話ばかりでした。そして、以前にちらっとご紹介した神護寺と深い関わりがあるどころか、神護寺自体が「和気清麻呂が創建した寺院」という感じでした。

神護寺との関わりに気づいたのは、複製の巻物であり、職員の人に聞くところによると、それを含めて「神護寺の人と共同作業をしまくり」という感じで、和気神社の木の一部は京都から持ってきたものだというような感じのことも書いてありました。

和気神社

和気神社

和気町歴史民俗資料館の横にある神社「和気神社」も御所の横の護王神社系ということで、「馴染みがありまくり」という感じでした。

まあ歴史的な事実はどうかわかりませんが、和気清麻呂氏がいなければ平安遷都も天皇家に関しても歴史が変わっていた可能性があるレベルですし、京都と関わりが強いのは当然といえば当然です。

ふるさと和気 民話編

ふるさと和気 民話編

ふるさと和気 民話編

さて、今回は「ぼっけえ、きょうてえ」を中心としたツアーであり、作中にも「和気村役場」が出てきたりしたので和気町にやってきたわけですが、岡山県内の民話や伝承が作中に何かしら織り込まれているのならということで、和気町歴史民俗資料館の刊行物として置いてあった「ふるさと和気 民話編」を読んでみました。

「たまらん」

という感じです。

感覚で言えば、「リッツ・カールトンに飽きた人が、地方の民宿に泊まりたがる系」の良さがあります。

買ってきてから間もないので、まだ全てを読み終えてはいませんが、「蛇体さんのおかげ」や「谷野杢蔵」などは「たまらん系」です(蛇体さんのおかげは絵本もありました)。

ふるさと和気 民話編(和気町歴史民俗資料館)

また良い作品を発見したら覚書としてタイトルを列挙しようと思います。

文化的価値を遺そう

何かしらの書物を読んで、一目惚れ的なことはこの数年間ありませんでしたが、こんなところでこのような良いものに出会えるとは思っていませんでした。「こんなところにこんなものが感」が半端ではありません。

ともすれば、観光需要にストレートに影響するので「世界遺産」等々の認定ばかりという感じですが、そうした消費脳を刺激するようなやり方だけでは、本質的な文化的価値の方を遺せなくなってしまうのではないか、ということを思ってしまいます。

今回のような「ふるさと民話」に触れることでふと思ったのですが、地方の人も都市部に移住したりしてしまう社会が加速していると思いますので、この手の民話は早急に手を打たないと近い将来誰の記憶にも残らないような事になってしまうのではないかと思ってしまいました。

地方における若者の都市部移住だけでなく、核家族化も進んでいるので、「おじいちゃん、おばあちゃんから『むかし話』を聞く」という機会が格段に減っているような気もしますし、余裕をかましていると知らぬ間にそうした民話や伝承が途絶えてしまうのではないか、ということを思います。

こうした民話の中には非常に優れたメタファーが織り込まれていたりします。

せっかくITだ情報化社会だ、ということになってきているのであればなおさら、文化的価値のある「むかし話」をデータ化しておくに越したことはありません。

情報化社会と言っても、コンピュータやネットワークにできることは、検索や計算、それらの遠隔操作などであって、元のデータがなければ何の意味もありません。

おじいちゃん、おばあちゃんから話を聞くことによって、このままでは埋もれていってしまう民話や伝承、そして古い風習などをデータとして残し、次の世代のために遺しておいたほうが良いのではないか、ということを思いました。

やり方によってはそれほど費用もかからないと思いますし、国や市町村、そして研究機関である大学を筆頭に各種学校などが連携すれば、それほど大きな費用をかけずにもできそうな感じがします。いっそのこと地域の商工会などが頑張っても良いレベルです。

ある程度は学問的研究によってデータ化されていると思いますが、細かい話を含めれば、資料化されているのはおそらく一握りでしょう。

ということで、できるだけそうしたものは残していったほうが良いのではないか、ということを感じました。

少し前に「駄菓子」についても触れたことがありましたが(味やロマンと駄菓子の機械)、そうしたものを含めた民間レベルの「ささやかな文化」は知らぬ間に姿を消してしまいます。

民話で言えば、聖典とされる書物や文豪の作品や歴史的研究の前で影を潜めるという感じになるのか、それらは淘汰と言えば淘汰なのかもしれませんが、文化的価値の部分は保護していっても良いような気がしてなりません。

Category:adventure 冒険の旅

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