新しい魂の医者はどこにいるのか?

慰めという薬は、それによって人生が、現在人々が信じているあの苦しみにみちた根本的な性格をはじめて手に入れるようになったものであった。人間の最もひどい病気は、彼らが病気にうち勝つことから生じた。 曙光 52 前半

今まで一度も入院はしたことがないのですが、ちょくちょく身体がおかしくなることがよくありました。

特に胃腸です。毎年このシーズン、夏が終わり秋が差し掛かる頃の9月上旬から中旬は、胃腸に激しいダメージの来るシーズンです。十代の頃に二回ほど十二指腸潰瘍になっています。

しかしながら潰瘍よりも、便秘との格闘の方がしんどいと思っています。止まらない下痢のほうがタチが悪いと思っています。

幾度と無く触れていますが、胃腸の都合を無視した食事、腹を無視した衣服などこの世に無くてもいいものです。(下痢促進着である浴衣やしゃがんだら腰が出る服など)「ゆかたビフォーアフター」「病気に対する思想!

腹痛の治し方や急な激痛の和らげ方

体も強くなり変化もすぐにわかるようになってきた

しかし昔に比べて腹が強くなったものだなぁと思います。

腹だけでなく、体も強くなりました。その理由としては、身体のいろんな変化がすぐにわかるようになってきた、ということも要因のひとつになるでしょう。

「あ、塩分が足りない」とか、「血が汚れ気味かな」とかすぐに分かってしまいます。

昔から体は大きいもののそれほど体が強いわけではなかったため、人任せにできないということで、体調管理・体調の変化には敏感だったことが影響しているのかもしれません。

病気の原因の大半はストレスと言いますが、確かに体調の変化に関しても、意識からの影響は凄く大きいでしょう。

そういう意味で図太い人はなかなか体が強いものですが、個人的にはそういう人を「大便がスルッと出る人」と呼んでいます。その手の人とは友達にはなれそうにもありません。

そんなことで、意識の持ち方が病に関連しているのは否めないことですが、それを何か宗教的なことと絡めてはいけません。

宗教的なことと絡めてはいけないの同様に、男女でストレスの種類が違いますから、互いの方法論が食い違うことがよくあります。

話を聞くという慰め

懺悔というシステムのように、人に何かを話すと気持ちのモヤモヤが解消される、ということが本当かどうか実験したことがあります。

確かに短期的には効果がありますが、何かの問題があるとすれば、誰か第三者に愚痴を言うのではなく、問題の張本人に直談判したほうがもっと効果的です。

自分の都合であることが見えない「雑な人」

世の中には雑な人がいます。大便がスルッと出る人ですね。

「それはそっちの都合だ!」とキレてくるその主張自体が自分の都合だということに気付かないような人です。

致命的にアタマが悪いのですが、その人を説得する必要はありません。

説得する必要はないのですが、言いたいことは言いましょう。

そして切れてしまうような関係ならば不要な関係です。

その関係がないと困るという思い込みのほうが問題だということです。

可愛がられようとする必要はない

余程の状況でない限り、いや、五体満足ならばどのような状況からでも一人で独立自由に暮らしを再スタートすることはできます。

どこかで正々堂々とせずにぶら下がっているというか、「可愛がられなければ」というような要素があると、それができません。

本来は受け取るのが不相応なことを「可愛がられているから」という理由で、感情的に優遇されている場合は、相手からの気に入られ方などが気になってしまいます。しかし、そんなことを無視して堂々としていれば、そのタイプのストレスはありません。

その人にすがることがなければ、神仏にすがらなくても、そのタイプのストレスはすぐに消えていきます。

新しい魂の医者はどこにいるのか? 曙光 52

Category:曙光(ニーチェ) / 第一書

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